無題

みずうみ

 人影を見たと飛び出していった島田が、霧の向こうからぼくらを呼んでいる。

 おーいおーいと繰り返すその声は、確かに島田のものに違いなく、でも、いくらこちらが話しかけても何も返してはくれず、ただメトロノームように淡々と、何時間もずっと、おーいおーいと繰り返している。声の合間、霧の向こうに見え隠れする手をふる島田の輪郭は、頭が大きくふくれあがり、床に垂れ下がり、明らかに人のかたちをしていない。

「だめだッ!」

 インスタントスープを温めようと、着火剤と格闘していた北野がヒステリックに鍋をひっくり返した。無理もない。ようやく見つけたこの洞窟の中にも、忌々しい霧は流れ込み、壁も床も天井もじっとりと濡らしている。森の中を一時間ばかりさまよったぼくらも、当然頭から水をかぶったようにずぶぬれで、衣服と肌にはりついた水分が生ぬるい重みとなって全身に巻きついている。

 どぼどぼになったナップザックの中から乾パンの缶詰を取り出し、開けた。乾いているというそれだけで乾パンはありがたかった。北野が二枚。ぼくが二枚。食料は貴重だ。赤茶けた土に生えるこの森の植物は、どれもプラスチックの玩具のようにつるつるで、目に痛い原色の緑をしている。とても食べられるとは思えない。

「まずい……」

 二人でもそもそと乾パンを噛み潰し、時間をかけて飲み込む。口を開くと、霧がその中にもいやらしく入り込み、吐き気をもよおす青臭さと生臭さが鼻にぬける。北野は五組の中でも話し好きの女子だったが、ここに迷い込んでからはすっかり口数が減ってしまった。

「先週のさ、プールを思い出すよね。着衣水泳」

 沈黙に耐え切れず、ぼくは北野に話しかけた。それだけで今飲み込んだ乾パンを戻しそうになる。でもそれ以上に沈黙は耐えられなかった。天井から垂れる水滴の音も、だんだん大きくなっている気がする島田の声も、何もかもいやだった。

【続く】