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【2018忍殺再読】「アルター・オブ・マッポーカリプス】

リアルニンジャの殺し方

 AOMシーズン2、第10話(最終話)。シンウインターとの最終決着、恐るべきヒャッキヤギョの到来、己の過去を取り戻すマスラダ、サツガイとの決着と、物語の進行度は加速度的に増し、シーズン2中に拾うとは思わなった要素まで拾って終わる。それにしても、冒頭のヒャッキヤギョを呼び込むサツガイのシーンは何度読んでも絶品ですね。何の疑いもなく体重をあずけていた自室の足元の床が抜けたような恐怖感。私はシトカ市民たちが突如覆面を被りセイケンヅキを始めるシーンが特に好きでして、あれはこの『ニンジャスレイヤー』という作品でしか不可能な背筋の凍る描写だったなと。ニンジャとは無限の可能性であり、何の脈絡もなくそれを押し付けられた人間がどうなるかと言うと、狂うんですなあ。大海原のど真ん中にいきなり落とされた人間は正気を保てない。

 過去に描写されたムカデ・ニンジャ、ブラド・ニンジャの次元が一つ上の強さを鑑みると、ヒャッキヤギョはこれもうどうしもないんじゃないかと思ったんですが、案外どうにかなりましたね。憑依ニンジャ勢力においては現在世界最強であろうザイバツ(戦闘を日常的に行っているのは彼らくらいでしょうし、何よりリアルニンジャ狩りを生業にできる連中ですからね)の参戦も理由の一つでしょうが、個人的に強く納得させられたのは、ダークニンジャがサナダ・ニンジャに語った「お前は死者だ」という理由づけです。カラテは世界に抵抗する力である以上、世界に参加していない(生者ではない)存在は万全にそれを発揮することができない。リアルニンジャが真にその実力を発揮するのは、現世社会に食い込み領土を展開し「生者」となった時であり、この召喚直後のタイミングは彼らを楽に殺せる唯一のチャンスだったのかもしれません。

 とはいえ、彼らが圧倒的強者であることは間違いのないところ。サナダ、サザナミという明らかに格上のリアルニンジャに対し、ダークニンジャとサツバツナイトそれぞれがとった攻略法は二人の個性が出ていておもしろいです。ダークニンジャは前述の通り、自分の言葉と末期のハイクの引用によりサナダを死者と定義づけ、彼のカラテを強制弱体化させて勝利したわけです。ただ『ニンジャスレイヤー』という作品において、言葉の戦いは通常「ジツの戦い」に翻訳されて描かれるべきものなんですよね。原作者の定めたイクサのルールの盲点をつくように、むき出しの言葉で相手の隙を付く彼のやり口は、この世界の心理に最も近い男だからこそとれた抜け道と言いますか、ずるっこと言いますか、陰湿と言いますか……さすがはカンジの呪いを刻まれたり刻んだりする男ですね。ダークニンジャが言葉/ジツならば、サツバツナイトは物理/カラテでしょうか。どれほどに強大であろうとも、カラテもジツも物理世界に発現した「事象」としてしか、己に影響を与ええない。「リアルニンジャだから勝てない」という物語上のお約束、彼らが強大である意味づけを引きはがし、「太古の怪物が放つ恐るべきセイケンヅキ」を「速度Aで己に向けて飛んでくる物体」に還元してしまう。神話めいた戦いを純粋なカラテ物理法則の応酬としてむき出しにするという点では、サツバツナイトのそれは、ある種のサップーケイめいた境地と言えるでしょう。

ニンポの男:サツガイ

 サツガイというラスボスについて、私はこのアルターを読むまでとりたてて好感は持っていませんでした。超越者めいた彼はニンジャというよりは地震や台風の類にしか見えず、キャラクターとしての魅力をどうくみ取ればいいのかわからなかったんですね。そして、本エピソードを経て、私は彼のことが、シンウインターとサキュバスに継ぐ好きなキャラクターとなりました。それはその魅力がわかったからではありません。むしろ逆、このサツガイという存在は、どこまでも「キャラクターとしての魅力をくみ取りようがない」「好きになろうにも、好きになるべきドラマも人格もない」ことが明確になったためです。私が好きになったのは、サツガイという物語ではなく、サツガイという構造です。

 作中で「カツワンソーの洞窟の影」を自称する彼は、そのハッポースリケンに象徴されるように、どこまでもランダムな存在なんですよね。彼の根本はカツワンソーの一側面であり、キャラクターとは呼べない「世界をかき回す=ケオスをもたらす」という現象そのものです。その圧倒的な強さは「カツワンソーの洞窟の陰だから」という設定がもたらすものであり、その肉体はブラスハートという他人のものであり、そのひょうきんな人格も「現象」の上に偶然貼りついた、ダイスを転がして決めたようなものでしかない。彼には蓄積がない。動機がない。ドラマがない。物語がない。スロットマシンがそろえた数字の羅列に感情移入を行う余地はない。

 シンウインターが自身の経験と学習を通じて虚無に行き着いた男ならば、サツガイは、最初から意味も理由もない「そういうもの」としてメイキングされた虚無……否、虚無とすら呼べないでしょう。地震や台風に、地震や台風本人の意思がないことを「虚無」とは言えません。「現象」はどこまでも「現象」でしかなく、「虚無」というのもまた、外側からの観察者の解釈に過ぎないからです。ニンジャは「であるもの」でなく「するもの」である。そして、サツガイとは究極の「であるもの」であり、ゆえにジツではなく、ニンポを使う、ニンジャの紛い物なのでしょう。真冬の男:シンウインターと、ニンポの男:サツガイ。役割の男と現象の男。シーズン2とはこの二人を通じて、「理由がないこと」「意味がないこと」を深堀りしてゆく物語であり……そして当然、二人の描写は、この最終話において主人公・マスラダの本人の物語に接続されることになります。

折り紙を開くように

 折り紙とは無意味に意味づけを施す行為です。ただの紙が、人の意思と行動による影響を受けて「鶴」という意味を帯びる。真実という側面では、それは依然ただの紙のままなのに、意思と行動がそれを揺らがす。「紙」を「鶴」と読み誤る/翻訳する余地を与える。ありもしない、意味と価値をそこに幻視させる……それは、フジキドがトリロジーでやり遂げた物語でした。積み上げた屍山血河を、フジキド自身にとっての何かしらの「意味」と解釈する旅路であり、読者にとっての彼がリアルニンジャ/生者として蘇る伏線に昇華するお話でした。そして、マスラダ・カイが二つのシーズンを越えて辿った道筋は、フジキドの逆回し……現代から過去へと遡る旅路であり、意味を無意味に還元するお話でした。死せるオリガミ・アーティストは、最早、紙を「鶴」と偽ることはなく、「鶴」の構造を理解(「わかった」)し、展開し、ただの紙へと戻してしまいました。

 「サツガイを知っているか」「(他人のカラテが)大体わかった」という彼を象徴する二つの台詞は、物語の中で幾度となく鍛え直され、最後に彼自身の物語をバラバラに解体する道具となります。「俺はサツガイを知っている」「(真実が)わかった」 前述の通り、サツガイはどこまでも無意味なランダムな事象であり、アユミの死もマスラダの蘇りも全てはただの偶然だった。その偶然に付与すべきあらゆる意味づけと介錯を、誤読と翻訳と改変をはねのけた先、そこに残るのは、ただそう「である」というだけの真実です。アユミを殺した犯人がマスラダであることは、シーズン1の結末の時点で多くの読者が予想済みだったでしょう。しかし、それはシンウインターとサツガイという二人を経由したことで、「意味がないこと」「理由がないこと」……ただそうである真実を描く物語として昇華されました。

 サツガイは直接的な仇ではなかった。そして彼の訪問には理由も意味もなかった。マスラダの殺戮行は、意味なき荒野の中で、ただ一つ明確だった「サツガイ」という名を本能的に追いかけただけのものであり、彼が積んだ屍山血河には何の意味もなかった。これは悲劇です。恐るべき悲劇です。ブラスハートは、ナハトローニンは、何のために死んだのか。そこには理由などなかったのです。彼らは、荒野を走る暴走列車に偶然轢き殺されただけだった。当初の動機を失ったマスラダに残された理由は「ゾーイを取り戻す」それだけであり、「サツガイ殺すべし」へと誤読・翻訳された「ニンジャ殺すべし」は、「ゾーイ取り戻すべし」へと最誤読・再翻訳されます(モータルの意思と関係なく、単にそれをエネルギーとして使用する……燃料として使用するマスラダのスタイルは、まさにエメツの利用そのものなんですな)。それは、一度完成した折り紙を、再度開き、別の形に折り直す行為であり……そして、ゾーイを取り戻せた今、再び折り紙は開かれてしまいました。

未来へ……

 エピローグにて、動機だけでなくカラテすらも失ったマスラダの姿が描かれたのは本当に徹底しています。石を積む行為に意味がないとわかったとしても、積んだ高さだけは記録に残る。しかし、彼からはその高さすらも失われた。本当の本当に、これまでの全てがご破算となった。ただ、一度折った紙は、開いたとしてもその折り筋は確実に残るものなんですね。彼はこのエピローグで、その折り筋のついた紙を丸めて捨てはしなかった。スシを食べ、とにかくその紙を、「無意味」を残すことを選び取った。

 フジキドは自分の殺戮行を一つの形に叩き直したわけですが……マスラダは元オリガミアーティスト。折れるモノは一つに限りません。今後、マスラダというキャラクターがどこに行き着くのかはわかりませんが、仮に彼がフジキドと別の道を歩むのだとしたら、「無意味でも構わない」と紙のまま戦うニンジャスレイヤーになる、あるいは「必要に応じて意味を創造する」昔の折り筋を利用し紙を自由に折りかえるニンジャスレイヤーになるのではないでしょうか。いずれにせよ、言えるのは、そのカラテはフジキドよりもはるかに柔軟で自由だということです。そして、その柔軟さと自由さは、全てがランダムで偶然でめちゃくちゃなマッポーカリプスの世に適している。「意味」を失ったということは、混沌に対応しうる「自由」を得たということ。AOMシーズン2。それは「意味のないこと」「理由のないこと」を経ることで、暗黒のカラテ帝国に対しうるニンジャスレイヤーが完成する物語だったのかもしれません。

■note版で再読
■1月4日