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【2019忍殺再読】「ヨロシサン・エクスプレス」

サンキューボンモーありがとう

 ニンジャスレイヤーAOM、シーズン3の第四話。ミステリジャンルから忍殺に入った私にとって、あまりにも衝撃的で、印象深い、ちょっと特別なエピソードが本作です。トリロジー時代、主人公が「探偵」の名を冠しているにも関わらず、その活躍はコミック・ヒーロー的、あるいはハードボイルドの文脈に則ったものであり、直球の推理小説は一つもありませんでした。これは私の持論ですが、『ニンジャスレイヤー』という作品は、サイバーパンクや指輪物語に匹敵するくらい、ミステリジャンルのエッセンスを強く持った作品です。しかし、それはテーマやドラマの面であり、実をもって展開される部分に、いわゆる「推理小説」が入り込むことはほぼありませんでした。「ザ・ブラック・ハイク・マーダー」や「バトル・オブ・ザ・ネスト」、「グッド・タイムズ・アー・ソー・ハード・トゥ・ファインド」など、舞台設定やケレン味の面でスパイスとして用いられることはあったとしても、物語の骨子の部分で「推理小説」であることに意味を持たせた作品はなかったように思います。

 そういう経緯もあり、「忍殺が推理小説をやる」本作は、私にとって記念碑的な一作です。何よりも嬉しいのが、そこに「忍殺が推理小説をやる」ことについて、とことん考え抜いた形跡があることでした。『ニンジャスレイヤー』という小説は、多層構造を持った複雑系であり、情報量が多すぎるという点で推理の机上に挙げることが困難です。その難しさを自覚し、その上で展開できる推理小説とは何なのか?を考え出した思考実験こそが、本エピソードです。モーゼス&ボンドは、公開されているプロフィールからして、恐らくこのジャンルにはそれほど明るくないでしょう。しかし、自分が作り出した『ニンジャスレイヤー』という小説への深い理解、そして再構築の手つきの丁寧さによって、このエピソードは結果的に、忍殺を実を伴ったミステリの最新型として完成させることに成功しています。その創作者としての真摯さの中に、自分が好むジャンルが含まれているということは、忍殺ファンとして、ミステリファンとして、余りにも嬉しいプレゼントでした。

 本作をミステリの視点から語り出すと、ここから余裕で一万字書けてしまうので、この話題は実際にそのくらい書いた証拠を貼ることで留めます。本記事では、それらの既存記事では触れていなかった点……すなわち、『オリエント急行の殺人』のオマージュ作品として本エピがどうなのか?、と言う点から、感想行為をしてゆきたいと思います。


冒涜の男:サクリリージ

 ……と、思ったのですが、サクリリージについて語りたくて仕方がないので、クリスティには一時失踪してもらいます。熱狂的なアマクダリフリークとしての血が、ミステリファンとしての私を殴り倒した格好です。トリロジーで幾度となくフジキドと戦った、アマクダリ側の主役の一人……みたいなイメージだったのですが、実際はネヴァーダイズからの出演であり、どうやらフジキドとの対面も一度もなかったという驚きですよ。キャラが濃すぎる。まず、何よりも「ボトク・ジツ」がいいですね。死体を武器に変えること。すなわち、ヒトをモノとして取り扱い、変質させること。本来の意味の剥奪と書き変え……それが「冒涜」。彼の度し難い所は、その冒涜の切っ先が、ボトク・ジツや自己そのものにも向けられているところでしょう。高潔な精神を持って善行を施すための手段は、人間爆弾の制作手段に貶められ、自らの肉体すらもが、他者を害するための殺意のための道具へと作り替えられる。冒涜の神を冒涜し、冒涜を行使する自らすらをも冒涜するその姿勢は、自らの全てである「冒涜する」という行為からすらも意味を失わせ……そこに、「冒涜」を冒涜するというウロボロスを作り上げています。

 そのジツとソウル、何よりカラテの在り方は、彼のパーソナルにも深く根を下ろしているように読み取れます。無為の怪物。無関心の権化。低体温のニンジャ。それは「全てに意味がある」ことを証明したニンジャスレイヤーの宿敵として相応しいものでした。「アマクダリのことすら実はどうでもいい」という点で、誰よりもアマクダリらしかったニンジャが彼でした。他者に、自己に、興味がないということ。全てがどうでもよく、あらゆるものが平坦で、ゆえに、人生をやってゆくために、なんでもいいので適当にゴールを設定してやっているような、そんなくだらなさ。

 果たして、これは本気で言っていたのでしょうか。彼は、本当に、シ・クランの王になりたかったのでしょうか。サクリリージ本人は、特にも語らないため、全ては読者の妄想にゆだねられます。……私は、実は、どうでもよかったのではないかと思っています。虚無の荒野をさ迷い歩く中で、石を一つ遠くに投げ、そこを目指そうと言う行為にそれは似ています。それは荒野を脱出する術ではなく、ただ「やってゆく」ための無為な遊びです。伏線として回収されることのない、意味を持つことのない手すさびです。「ごっこ遊び」だと自覚している「ごっこ遊び」には、ただただ自嘲だけが満ちてゆく。「ご照覧あれ」とヤモトに語りかける素振りには、彼の、そんな遊びの全てが詰まっています。そして、そんな何の意味もない行為に、多くの人が巻き込まれ、殺され、ヒトとしての意味を凌辱されてゆくのです。

 本エピソードのサクリリージ・ベストショットの一つに、私は上のツイートを挙げます。それは、虚無の荒野での無意味な手すさびが思い通りに一つ進んだという、ほんの微かな錯覚に等しい「意味」を、瞬間手に入れたことへの喜悦のようであり、そしてそれと同時に、そんな正の方向への感情をねじ伏せる、その喜悦すらもが実は無為であるという自覚に根差した冷笑でもあるでしょう。無意味を弄ぶことで、自己と他者を害する笑い。全てに意味がない。全てがくだらない。あのデスドレインすらもが激昂したその境地さえ、彼にはおもしろく、そして、どうでもいい。それこそがサクリリージと言うニンジャの、底知れぬ邪悪であり、魅力であると私は思います。


ヨロシサン急行の殺人、あるいはニンジャをつなぎあわせる死

「あらゆる階層、あらゆる国籍、あらゆる年齢の人々が集まっている。三日間は、この人たち、お互いに赤の他人同士が仕方なく一緒に旅をしているのです。一つ屋根の下で眠り、食べ、しかも、お互い離れることができないのです。そして、その三日間が終わると、みんな別れ別れになり、それぞれの道を行き、おそらく、二度と顔を合わせることはないでしょう」

「しかし」とポアロは言った。「もしなにかの事故でもあったら――」

「いや、そんなことは――」

「あなたの立場からすれば、それは悲しむべきことでしょう。しかし、ちょっとその場合のことを考えてみましょう。そうなれば、おそらく、ここにいる人々は一つのもの――死によってつなぎあわせられることになるのですよ」

(『オリエント急行の殺人』、アガサ・クリスティー、中村能三 訳、ハヤカワ文庫、p.46 より)

 原作者・翻訳チームからのアナウンスこそありませんが、本作が『オリエント急行の殺人』のオマージュであることは、ほぼ間違いないでしょう。寝台特急内で発生した殺人という点でもそうですし、今までのシーズン3の傾向から外れ、容疑者ニンジャたちが勢力の異なる複数の「人種」から構成されている点でもそうです。初読の際には、そういったシチュエーションや、トリックのアクロバティックな再現という点しか目についていなかったのですが……今回、「ヨロシサン・エクスプレス」と一緒に、『オリエント急行の殺人』も読み直した結果、本エピソードは、確かな原作理解に基づいて再構築された、極めて完成度の高い忍殺版オリエント……言うなれば、『ヨロシサン急行の殺人』であると認識を改めることになりました。



※以降には、アガサ・クリスティー著『オリエント急行の殺人』のネタバレが含まれます。未読の方は、注意してください。



 『オリエント急行の殺人』が名作である所以は、その新規性の高い奇抜なトリックもさることながら、ほぼプロローグと言ってよい先に引用したシークエンスにおいて、作品としての肝を全て明かし切っているという点にあると私は思います。「ここにいる人々は一つのもの――死によってつなぎあわせられることになるのですよ」というポアロの台詞は、「多様なクラスタの人間が、殺人事件という非日常によって一つにまとまる」という舞台設定の説明でもあり……そして、その裏側に「多様なクラスタの人間が、殺人事件という非日常を受けて協力して犯罪を行う」という真相を語る本当の意味を隠しています。また、この小説は高級国際寝台列車という豪華な背景を用意しながらも、旅情や背景美術にカメラが向けられることはほとんどなく、作中では徹底して容疑者尋問の会話劇のみに焦点が合わせられています。それが生む一種異様なソリッドさは、根底に情のドラマを持つ作品でありながら、ドラマを、新規性を持った試みとして、機械的に、システマティックに取り扱うミステリ独特の「冷たさ」「怖さ」を備えさせており、まさに絶品と言えるでしょう。

 一方、「ヨロシサン・エクスプレス」はソリッドな作品ではありません。むしろその真逆です。主題であるはずの殺人事件がかすむほどに、舞台背景の情報量は多く、登場人物たちは不必要なまでのノイズに満ちています。カメラはブレにブレ、死体も探偵も焦点が合うことはありません。奇抜にもほどがあるヨロシンカンセンの設定もそうですし、そもそも、「シーズン3内の四話目」という作品背景自体すらもが、これを純然たる推理劇として扱うことを阻みます。挙句の果てに始まるのは、殺人そっちのけの苛烈なイクサ、そしてサクリリージさんによる、あまりにもひどすぎるこの台詞。

 これは、本感想冒頭で記した「情報量が多すぎるという点で推理の机上に挙げることが困難」という前提に基づく素直な出力であり、そして同時に『ニンジャスレイヤー』のマッポーな世界において、そもそも、殺人事件(死)は、多数のクラスタをまとめる「非日常」として機能しないという意味でもあるでしょう(当然、それは、このエピソードがそういう側面を切り取っているというだけに過ぎません。忍殺においても「死」は大きなイベントです。そこを完全に否定する行為は、フジキドの復讐劇と大きく矛盾します)。ゆえに、本作は、「容疑者全員が犯人/殺人者である(殺忍鬼、死を司る少女、その眷属、快楽犯罪者、窃盗犯)」という、原作のトリックをなぞらえた構図をとりつつも、作中の事件において全員がその犯人であったという結末とは全く異なる……それどころか正反対ですらある……「誰も犯人ではなかった」という結論に辿り着くのです。「ヨロシサン・エクスプレス」とは、『オリエント急行の殺人』と同じシステムを使いながらも、前提が真逆であるがゆえに、真逆のものを出力されてしまった、鏡写しの作品なのです。

 それを象徴するのがアクセルジャックさんのこの悪趣味なジョークでしょう。「カネモチのガキの誘拐」は、『オリエント急行の殺人』事件のトリックへと結びつく重要なファクターであるにも関わらず、本エピにおいては端役の一人が持つ、どうでもよい背景事情に過ぎません(アクセルジャックがガキを殺していないというのは、無視できない差異ではありますが)。なまなかな事件では、ニンジャにとっての非日常にはなりえない。死は、殺人は、「事件」ではない。「ここにいるニンジャは一つのもの――死によってつなぎあわせられることに」はならない。では、ニンジャにとって、彼らをつぎあわせるにたる「事件」とは、脅威とは、「死」とは一体何なのか……。

 それこそが、シ(死)・ニンジャであり、彼女の眷属たちだったというのが私の回答です。彼女らのカラテの脅威こそが、ニンジャたちをまとめるイベントだったのです。シーズン3本編と無関係の、シ・クランがわざわざ登板した理由こそが、これだったと私は思っています。そして、このどんでんがえし、これこそが本作をただのオマージュに留まらぬ、新たなるオリエント急行とでも呼ぶべき傑作に高めています。すなわち、原作が「ここにいる人々は一つのもの――死によってつなぎあわせられることになるのですよ」という台詞に二つの意味を持たせ、片方をミスリードとして機能させたように、「ヨロシサン・エクスプレス」もまた、作中にはないこの文章……オマージュ元の作品内の文章に対して、新しく、より発展させた形で、二つの意味を持たせ、片方をミスリードとして機能させているのです。原作が、これを「全員が殺人事件に巻き込まれるんだな」と冒頭時点で理解させたことで、結末において「全員が犯人だったのか!」と驚かせることに成功したように、本作はこれを真逆の形で適用することで「全員が犯人ではないんだな(ニンジャは死によってつなぎあわされない)」と理解させた上で、「ニンジャをつなぎあわせる死とはシだったのか!」と驚かせることに成功しているのです。これは、『ニンジャスレイヤー』と『オリエント急行の殺人』、二者に対する深い理解に基づいた、恐ろしく高度な作劇であり、ゆえに私は本作を三谷幸喜ドラマ版に並ぶ、新たなるオリエントフォロワーの傑作だと考えています。


未来へ…

 今後の展開としては、キャスケットさんのホロウバインド・ジツが非常に気になるところです。死者の亡霊を介したキネシスとのことですが……そもそも死者の亡霊って何だよって話です。それは、ニンジャやモータルの「ソウル」を指すのでしょうか。では、キャスケットさんのこのジツは、ナラクの力の亜種と読んでよいのか? そもそも、シ・クラン周辺のカラテ事情は、非情に例外的というか、忍殺の基本原理ではどうにもうまくあてはまらない要素が多いんですよね。ネガティブ・カラテとかゾンビー・ニンジャとか、「カラテ」の原理を考えると、色々おかしなところが浮かび上がってくる。そもそも、シ・ニンジャは、そういった根本の原理の作成自体に関わっている節があるので、他のニンジャとは異なる特権的な立ち位置にいるのかもしれません。

 また、改めて読み返して印象深かったのが、「共に戦うならば、俺のありのままを知るべきだ」という彼の独特のポリシーです。一件かっこいいのですが、やってることが汚く飯を食うのと瞑想してる横で女とファックなのが本当にひどすぎる。こんな奴と絶対コンビ組みたくない。ウンコする時扉閉めないだろこいつ。ホロウバインド・ジツという、むき出しの姿(魂)を支配できる彼だからこそ、信頼を勝ち取る術として、同様にふるまう……といった背景が推測ができますが、どうなんでしょうか。いずれにせよ、彼のこの人を選ぶポリシーは、他人にクソほどの興味もないサクリリージと奇妙な噛み合いを見せ、何とも不思議な凸凹コンビを完成させていました。エレベストよりも高い凸と、マリアナ海溝よりも深い凹ですね。

■twitter版で再読
■2020年8月23日