見出し画像

沢海騒動について考えてみます(5)

保科正之は、1611年、二代将軍・徳川秀忠の四男(庶子)として誕生しました。
三代将軍・徳川家光は、保科正之が異母兄弟であることを知ってから、ことのほか可愛がったとあります。
徳川秀忠の四男がなぜ保科姓であるかはここでは割愛します。
1643年、会津藩は加藤明成(この事件の主役溝口政親の祖父にあたります。奇遇ですね。)が改易となり、その後、保科正之が25万石で藩主となりました。
保科家会津藩の二代目は正之の四男正経ですが、1681年に死去したため、六男の正信が養嗣子となりました。
1696年、この正信は松平姓、三つ葉葵紋の永代使用許可を得て、徳川一門(御家門)となりました。
こういう会津藩上げ上げの時期に、新発田藩との諍いである塩止め事件(1660年)が発生します。

この事件については、Wikipediaで井上久助を検索してもらえば大方の事情は察することができます。
要するに、会津藩と新発田藩は塩と蝋燭(ろうそく)
物々交換していたが、「新発田藩でも蝋燭が作れるようになったから、塩との交換比率を考慮して」みたいな交渉が行われている最中に、会津は蝋燭の出荷を止めたので、新発田藩も塩の出荷を止めたという事件でした。
親藩と外様藩ですから勝負は決まっています。結局、新発田藩士、井上久助が罪を被り、斬首され決着しました。面子の問題の様に言われていますが、会津藩も財政がだんだん苦しくなってきている時代で、蝋燭からの運上金も大事だったのかなと考えました。
そしてこの1660年代は徳川家綱が四代将軍でした。外様大名がどんどん潰されている頃でしたから仕方ないですね。
歴史に「もしも」は禁物ですが、これが20年後の1680年だったらどうでしょうか。いかに御一門でも、会津藩に咎めは無かったでしょうか。新発田藩ももう少し違った対応をしていたかもしれません。
前にも書きましたが、1681年に譜代の高田藩のお家騒動では領地没収蟄居という裁定が出ています。

ところで、沢海藩主溝口政親ですが、参勤交代はどのルートを通っていたでしょう。
多分、会津藩を通って江戸に上ったと思います。
このルート上に会津藩の津川という宿場町があります。
現在の阿賀町津川ですね。当時は相当賑わっていたとのことです。
沢海藩の位置からすると一番近くの本陣になるのでしょう。
小国といえども澤海藩主が逗留するとなると、会津藩から幹部級の者が挨拶に来ていたはずです。
沢海藩主溝口政親は酒好きだったでしょうから、接待も受けたでしょうね。逆に政親も金を使ったはずです、ココ津川で。

次回はそろそろ核心部分に入ります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?