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沢海騒動について考えてみる

江戸時代の初期に
現在の新潟県にあった「沢海藩」でおこった
「沢海騒動」について考えてみました。
沢海藩は新発田藩の支藩ということで
1610年に新発田藩主溝口秀勝の次男、溝口善勝が
立藩したそうです。
その三代目溝口政良のとき
跡目の長男金十郎がありましたが
早世してしまいました。
ほかに子が無かったので
溝口政良の継室(水口藩主加藤明成の女)
甥を養子にすることにしました。
それが(後の水口藩主)加藤明英の弟采女で、
名を改め政親となり
沢海藩四代目藩主となりました。
そして就任からたった4年で改易となり
沢海藩は消え去りました。
https://widetown.cocotte.jp/
雑学の世界・補考
江戸の三面瓦版→沢海騒動
■沢海騒動
によると
※※政親が養子になったときに水口藩からは石黒小源太、佐川佐内らが付け人としてやってきていた。
石黒小源太は正直者であったが、中小姓の佐川左内は悪心を抱き、政親に取り入って小源太を中傷して失脚させ、自分はさらにゴマをすって出世していった。
左内は政親に遊興を進め、政親の行状は日に日に悪くなるばかりであった。
ようやく迎えた新藩主の行状に、藩の重臣たちの心配は募るばかりで、家老神田与兵衛は諌書を提出した。
無用な出費が多いとか神仏を敬えとか、遊芸を謹んで文武に励めとか六ヶ条に渡るが、要は遊興はほどほどにして政治に励んでくれという内容であった。
政親は与兵衛の諌書にもっともと思い、一時は行状改まるかに見えたが、左内が政親にベッタリと寄り添い悪事を吹き込んだので、政親の行状は元に戻ってしまい、それを嘆いた神田は自害して果てた。
神田が死去すると政親と左内を諌める者はなくなり、左内の思うままになっていった。
これを批判すれば遠ざけられるので、ますます左内は増長し、それに連れて政親の行いも乱行が目立った。
あまりの乱行に領民からの批判の落首が大手に貼られたり、また他領にも聞こえるようになってきた。
さすがに重役たちもこのままでは御家滅亡と考え、相談を重ねて左内を暗殺したうえで政親を押し込め、病気乱心として新たに養子を迎えると申し合わせた。
決起した重臣、藩士らは左内の屋敷に押し寄せて左内を捕縛して死罪とし、さらに陣屋に向って上意として藩主政親を押し込めた。
次の養子を松平左衛門二男と決め、赤川平右衛門と玉井長左衛門の両名が江戸に派遣された。
両名はまず政親の実家であり、政親の実兄である水口藩主加藤明英のもとに政親の乱心と養子願いの話を持っていく。
驚いたのは加藤明英だ。
明英はのちに奏者番、寺社奉行、若年寄まで勤める人物だから、両名の話に納得せず自らの家臣2名を沢海に派した。
明英の家臣は沢海で政親にも会い、事情を調べると赤川らの言い分と全く違っていた。
江戸に戻った家臣の報告を聞いた明英は怒り、謀をもって藩主押し込めなど不埒極まりないとして、沢海藩上知いわゆる領地返上を願い出た。
幕府は当初は藩の存続も考えたようだが、明英のたっての改易の願いにより藩主押し込めは誤りとして改易に同意し、本藩の新発田藩も同様だった。
伊達綱村が江戸屋敷受け取りに任命され、沢海には幕臣竹村惣左衛門が上使として派遣され、ここに沢海藩は取り潰された。※※

この文章は、上記のHPから拝借しましたが
この内容の多くは
「大栄寺通夜物語」という、事件から約60年後に書かれた資料の「沢海落城根元記」からだと思います。

私が少し不審に思ったのは
①佐川佐内という人物は、歴史資料に全く出てこない
②城代家老から遊興を控えろという諌書があったとあるが遊興程度で諌書するかな
③乱行というが、行状としては酒を多く飲む程度であったし、具体的な他の悪行は資料からは全然伺えない。
④領民及び旧溝口家家臣一同そろってのクーデターとのことだが、この政親の執政はそれほど悪かったのか?執政はたったの4年だった。そのうち2年は江戸住まいのはずだ。
⑤溝口家の家臣団は、政親を後継ぎ養子に迎えるとき、加藤家の次男坊を調べなかったのかな・・・間違いなく調べたはずだ。調べて問題が無かったので嗣にしたはずだ。
⑥そもそも、この事件について詳らかな資料が意図的と思えるほど残っていないのが不思議で、かつ、加藤家に対して辛辣である。さらに、何が憎かったのか溝口家の菩提寺「大栄寺」は政親を弔っていない
で、次回からこの事件の真相を推理してみます。


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