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沢海騒動について考えてみます(2)

前回、疑問点をいくつか列挙しました。
そこから少しずつ推理を行ってみたいと思います。
①「佐川佐内」という人物が歴史資料に出てこない
これは意図的に誰かが消したと思います。
なぜ、消したか、いや、消されたか
これは、当時の沢海騒動関係者にとって都合が悪かったからでしょう。
また、「佐川佐内」が偽名だったとしても、そのような役回りの側用人が本当にいたかどうかもわかりません。
例えば、「佐川佐内」が加藤家からの側用人だとしたら本名を出すと、加藤家家臣を直接攻撃することになります。
事件後、兄の水口藩主加藤明英は出世して若年寄まで上ります。
これではまずいでしょうね。
60年後といえども、大栄寺通夜物語で書いてしまうと加藤家から反発されるでしょう。
加藤明英の祖父、加藤明成は1648年まで、阿賀野川上流の会津40万石の領主でした。
改易後、家臣の一部には次の会津領主保科家に拾われたものもいました。
「佐川佐内」はそれらの縁戚者であったかもしれません。
沢海溝口家の大方の家臣は新発田家に連なる縁者でしょうから、新発田藩を守るためにも本名は出せません。
大栄寺通夜物語にとって、4代藩主溝口政親の無能ぶりを際立たせるには「佐川佐内」という悪役が、実在したかどうかには関係なく、どうしても必要だったのでしょうね。
次回は、無能と言われた溝口政親について書いてみます。

※昭和51年発行の沢海城物語(著者・角田夏夫、発行所・北方文化博物館)を読んだことが、私の文章にすごく影響していることをお知らせしておきます。

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