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沢海騒動について考えてみます(7)総集編

溝口政親の誕生から沢海藩の廃絶、加藤明英の栄達を時系列でまとめてみます。皆様のご理解に少しでも役に立てばと思っています。

1654 政親、加藤家の次男として生まれる
1658 塩止め事件発生(保科家と新発田家の確執)
1659 沢海藩・溝口政武誕生「断家譜」
1660 塩止め事件 新発田藩士・井上久助斬刑
1664 新発田藩内の沼垂町の沢海藩藩蔵を廃止 蔵宿を長岡藩新潟町移す(新発田藩と沢海藩の経済的齟齬)
1670 溝口政良、後を継ぎ沢海藩三代藩主となる
1672 河村瑞賢,奥羽米の江戸回送のため 西回り航路を開く 小木港寄港指定地となる
1673 保科正之死去
1677 溝口政良の嗣 溝口金十郎政武、江戸藩邸から姿をくらまし仏門に入る。19才(沢海城物語 P181)(沢海溝口家の不幸の始まり)
1679 政親、溝口家の養子となる(断家譜)26才 加藤家から溝口家への持参金は二千両であったといわれる
1680 政親、綱吉に拝謁(断家譜)
1681 高田藩のお家騒動に対し、松平光長、領地没収蟄居(越後騒動)(この頃はまだ家臣が藩主に反撃することが多々あった)
1681 9月、溝口金十郎政武歿 齢23「断家譜」
1682 加藤家1万石加増、近江水口藩へ移封
1683 政親、溝口政良の死去に伴い跡を継ぎ沢海藩四代藩主となる(断家譜)30才
1684 加藤明英、家督を継ぐ 33才
1684 沢海藩,領内総検地を実施,1反を300歩とする それまで1反は360歩だった(沢海藩の農民の不満が高まったと思われる)
1685 政親、沢海入部(断家譜)
1686 塩川村の栗村権七郎が会津藩から事業資金を借り入れ、船20隻を造って塩川から下ったのが本格的な舟運の始まりと言われています(阿賀野川水運の発展)
1687 8/25越後澤海藩改易 その後沢海は旗本の知行地天領となる(若年寄の差配地となる、大名の領地は老中差配)
1689 加藤明英、八月 奏者番兼寺社奉行就任
1690 加藤明英、若年寄就任

話はこれで終わりません。
溝口政親のその後はどうなったのでしょう。
実兄加藤明英の駒として活躍?したわけですが、蟄居という形で加藤家江戸屋敷で飼い殺しとなるのでしょうか。
1693年、断家譜では死去となっています。改易から6年、まだ40才です。
次回からこれも推理してみます。


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