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沢海騒動について考えてみます(6)

前回、”そろそろ核心部分に入る”と書きましたが、その前に沢海藩の溝口家についてもう少し書いてみます。

当時の溝口家の系図

沢海藩三代政良の長男政武は江戸で問題を起こし19才で仏門に入っている(1677)。(断家譜)
その後、まだこの長男政武が存命中に、政親を加藤家から養子に迎えている。(1679)
三代政良は何故だか判らないが、本藩の溝口家から養子を探さなかった。
恐らく、政良の代になると本藩と諍いを起こしていたと推察できます。
この沢海は、阿賀野川が横断しています。
当時は、阿賀野川の水運が発達し始めており、材木の切り出しや、海産物の輸送さらに年貢米の運搬等に利用されています。
沢海藩は阿賀野川の水運から上がる運上金が多かったと思われますし、隣接する新発田藩は沢海藩との調整がなければ、運送費等を勝手に決められない状況にあったと考えます。
さらに、会津藩と沢海藩が結託したらどうでしょう。
20年前の事件(塩止め事件)が思い起こせます。
溝口政良の時代はまさにこんな状況だったんでしょう。
婿養子を本藩に頼めなかったのもそこにあったと思います。
新発田藩としては、沢海藩の婿養子に手は出せませんでしたが、何も知らない加藤家からの養子の間に、沢海藩の家臣団に手をまわし水運等を有利にしようと企んだと思います。
ただ、この婿養子はすでに27才で、実兄の加藤明英は29才でした。
暗愚と言われる政親ですが夫人も居たようですし、兄明英と情報交換も繁く行われていたでしょう。
政親は普通に藩主を務めていたはずです。
兄明英は将軍綱吉の覚えも良かったので、弟に対し御一門に有利に事を運ぶよう指示していたでしょう。
そんな中での沢海藩家臣団の反乱です。明英にしてみれば予定内の事件だったのです。
大名の改易、減封を記した「廃絶録」によると「貞享四年八月二十五日、越後澤海、一万石、溝口政親、発狂廃絶」とあります。(1687年)
発狂と書かないと、反乱防止が出来なかった責任を問われ、切腹となります。
改易後、政親は兄加藤明英の江戸藩邸で逼塞を命じられています。
幕府から終身米五百俵を得ています。
沢海藩の家臣団は当然、本藩から手助けがあると信じていたはずです。本藩の親族溝口家から養子が来ると思っていたでしょう。
しかし、加藤明英は弟の藩とは言え、口出しし、廃藩を願い出ています。
幕府はそこまでしなくてもという意向であったにも拘らずです。
加藤明英は幕府内で、押し通す力があったということです。
1690年、この事件の僅かに3年後、加藤明英は若年寄に就任しています。加藤明英は1711年まで21年間という長きに渡り若年寄を務めます。


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