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オーバーステイの代償 Chapter 5 マグロ漁船のペスカドル

2008年7月某日、俺は沖縄の那覇にたどり着いた。アメリカから帰国後、和歌山で6ヶ月間のニート生活をへて、マグロ漁師になるために沖縄に来た。27歳になっていた。

水産庁が主催する漁師育成プロジェクトに参加する。マグロ漁師研修生として、沖縄の泊港を拠点とする、近海延縄漁の船にお世話になることになった。水産庁からプロジェクト参加者に対して、毎月一定の金額が支給されるというシステムだった。船のオーナーにとって、水産庁の金で若い人材が雇える。自分の財布からは給料を払わなくていい。美味しい話だった。

マグロ漁師研修生は俺の他に2名居た。こんちゃんとはにゅうさんだ。こんちゃんは神奈川の出身で、俺より少し年下だった。はにゅうさんは、東京から来た、30歳だった。俺ははにゅうさんと同じ船にお世話になることになった。こんちゃんは一人で別の船に乗る。

第三とも丸。それが俺がお世話になる船の名前だ。オーナーの息子さんが船長で、俺より少し年上の若い船長だ。初めての航海に出る数日前に、和歌山の従姉妹がメールで教えてくれた。明日から子供達は夏休み。従姉妹おい達の事だった。

初めての航海ではスナオさんという先輩船員に大変お世話になった。彼は自分のことを、にぃにと言った。「にぃにがやるからよく見とけよ」よくこう言って、漁船での仕事を教えてくれた。生粋のうみんちゅだった。にぃにはその後も俺のことを可愛がってくれた。彼の家に招き入れられ、キャバクラに連れて行ってもらった。彼の奥さんはこう言っていた。「男の人はね、浮気するもんなの」そう言いながら、マグロの刺身と発泡酒を振る舞ってくれた。

2007年夏休み初日。俺とはにゅうさんを含め、7名の船員を乗せた第三とも丸は、パラオ沖の漁場に向かって、航海を始めた。出港は夕刻だった。長い航海だ。パラオ沖まで7日間船は走り続ける。漁場までは、漁具の作成作業をOJTで習得して行く。にぃには、カジキの鼻先の骨で作った道具を使って、延縄の連結部分の作成方法を教えてくれた。他にも同じテクニックでビン玉の網の作り方も教わった。

マグロ漁船での生活は、過酷だった。寝室はエンジンルームの後方にあり、常時グオーーーという音がしている。その中に割り当てられた、縦170センチくらいのスペースに、膝を曲げて寝る。寝室のエアコンはいつもキンキンに冷えていた。

トイレは、ない。船のヘリにお尻を出して、海に直接排便できるように、上手くやる。海が荒れている場合は、バケツにする。

シャワーはいつでも出来た。海水で。洗濯も海水でやるし、シャンプーも海水でやる。真水は、飲み水、料理用のみに使う。

操業中の朝は6時ごろ始まる。非常ベルの音で起こされると、外に出て、菓子パンを頬張りながら、延縄仕掛けの餌付けと仕掛け作業を始める。50キロ程度の距離を走りながら、仕掛けを海に入れていく。この作業が昼まで続く。この作業が終わると、昼食を摂る。結構ガッツリ食べる。そして、昼寝をする。

3時間程度昼寝すると、また非常ベルの音で起こされる。今度は仕掛けの回収作業を始める。餌に食いついた、魚を引っ張る作業だ。捕れた魚は、その場ですぐに脳天締めと血抜きの作業をする。船のデッキは血だらけになる。処理した魚は、塩水のみぞれみたいな冷水の中に入れる。回収した延縄の漁具を片付ける。それを夜中の3時頃までやる。全ての漁具を回収したら、ラーメンを食べて、海水で身体を洗い、寝る。3時間後、また非常ベルの音で起こされる。これを餌が無くなるか、船が魚で一杯なるまで毎日続ける。大体20日くらい操業する。今日が何月何日で何曜日なのかなんてわからなくなっていた。うみんちゅ、ペスカドルの世界観。

延縄漁では、色々釣れる。キハダマグロ、めばちマグロ、ビンチョウマグロ(トンボ)等マグロ以外にも、ブルーマーリン、メカジキ、サメ、赤まんぼう、エチオピア(しまがつお)、おにかますなんかが釣れた。サメは結構よく釣れるのだが、釣れると、ヒレを切り落とし、そのまま海に捨てる。サメの生命力は強く、全てのヒレを切り落としてもピンピンに生きている。生きたまま、ヒレを失ったサメを海に捨てるのだ。サメのひれはフカヒレにするために、中華料理屋が買い取ってくれる。フカヒレで稼いだ金は、船員の小遣いになるシステムだった。

大海原で獲れる魚のサイズは規格外なやつもいる。時々メカジキが釣れるが、大型のメカジキは、太い胴体を持っていて、体重も100キロを超えるものが多い。白目のない大きな真っ黒な目は、地球外生命体を彷彿させる。キハダマグロも全長180センチくらいの個体だと、100キロ程度だそうだ。そんなサイズの魚を獲りまくり、殺しまくった。魚も大型になると、何十年も生きている個体が多い。何十年も生きた生き物の命を獲っているというのが漁師のリアルな世界だ。

初めての航海を終えて、沖縄に戻ってくると、和歌山の従姉妹おい達の夏休みは終わっていた。40日程度の航海だった。一度目の航海を終えた後、はにゅうさんは、船を降りた。二度目か三度目の航海を終えた頃、こんちゃんが船を降りたと聞いた。沖縄で鳶職の仕事を見つけたらしい。マグロ漁船は、沖縄に入港すると、捕れた魚を水揚げし、セリに出す。それが終わったら、また航海の準備を始める。その間船員達は稼いだ金で遊ぶ。全てパチスロとキャバクラに消える。そしてまた航海に出る。その繰り返しだ。沖縄に入港中、俺は那覇にある、船員会館に宿泊する。宿泊費は漁船のオーナー持ちだ。船員会館には居酒屋があり、食事はそこで済ませる。食費もツケで、後でオーナーが支払う。

第三とも丸のオーナーは俺を可愛がってくれた。入港のたびに、彼は財布から1万円札を数枚取り出し、俺に渡した。その金で俺は漁船で読むための小説を買ったり、コンビニで買い物するために使った。パチスロとキャバクラには興味がなかった。船長は入港のたびにタコライス屋さんに連れて行ってくれた。彼も読書が好きで、俺が好きな馳星周の小説を彼は気に入った。

マグロ漁船の漁師生活にも板がついてきた頃、俺はまた違和感を感じ始めていた。アメリカに留学し、一生懸命勉強し、誰にも負けない英語力があるのに、俺はこんなところで何やってんだ? マグロ漁船の船員達は、高齢者ばかりで、将来の事など考えていない。ただ漁に出て、稼いだ金を全て溶かす。その繰り返し。沖縄の近海マグロ漁船の漁師に明るい未来はない。燃料の高騰により、魚が捕れても利益が出ない。水産庁がサポートして後継者を育てようにも、今時塩水シャワーだけで40日間魚を獲りまくる仕事を誰がやるのか。どう考えても現実的ではなかった。大手水産コングロマリットは、大型船の巨大な網で、マグロの群れ全体を一望打尽にする漁法でマグロを獲っている。資本主義の世界で、沖縄のマグロ漁船など、勝ち残れるはずがなかった。沖縄の近海マグロ漁業は伝統文化になりつつあった。

ある時、船の船底塗料の塗り替え作業の為に、船をドックに水揚げしたことがあった。そこにいた男は悪戯っぽく俺を見てこう言った「お前何やったんだ?どうせ下手打ったんだろ?」その通りだった。俺はアメリカでオーバーステイして、下手打った。何にも上手くいかなくなったから、ここにいる。オーバーステイの代償。

5回の航海を終えた時、俺はマグロ漁船を降りることにした。2009年1月の事だった。水産庁の漁師育成プロジェクトで支払われる、研修生の給与は、6ヶ月までだ。俺はそのタイミングで船を降りた。気づくと6ヶ月で100万円貯まっていた。俺と同じか、それより長い年月を海で生き残った魚達を殺しまくって稼いだ。次のチャプターに進む時間。It`s time for my next move.

俺が船を降りるとき、オーナーは俺にこう言った。「マグロ漁船はな、あんなきつい仕事ないんだよ。お前はな、陸に上がったらどんな仕事でもできる。マグロ漁船よりきつい仕事なんてないよ」。俺はなんでも出来る気がした。

続く

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