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第82回の補足として

「第82回 卒アルと空しさ」内で私は「小学生の頃の記憶は嫌なことしか覚えていない」と発言した。収録後、モヤモヤを抱えたままだった私はノートに思い出せること全てを書き出した。

簡単に説明をしておくと、当時通っていた小学校は全生徒数300人弱、1学年2クラスか1クラスで、遠い地区になると自転車通学をする学校だった。私の学年は45人程度で2クラスあった。

1年生、担任はヨシハラ先生50代のおばちゃん先生だった。子供に負けないどころか勝るほどの元気さを持つ人だった。

入学式の数日後、初めて1年生だけで帰るとき、校門を出てすぐのところで、班の中の力が強い女子から首を触られた。私はくすぐったくて笑いながら「やめてっ」と言った。それがおもしろかったのか、彼女は正面から首を絞めるような手つきでやり続けた。私は同じように笑いながらもやめるように言い続けたが、彼女は執拗に続けた。私は後ろ向きで走って逃げようとしたが、彼女も同じ速度で追って来た。私は後ろ向きに転んでしまった。ランドセルがクッションになったおかげで頭こそ打たなかったが、彼女は私がそうなってもやめなかった。どうなって彼女がやめたのか覚えていないが、真新しいランドセルに傷が付いた。私のランドセルは従来のランドセルのようにロックの金具が底に付いておらず、背負った時に真後ろに付いているタイプだった。その金具の一面が削られたような傷。私はそのまま泣きながら帰り、家でも泣いた。彼女は暴力的でもあったので、私はなるべく近付かないようにした。その後、彼女はその性格が故に孤立しがちになった。

私が何かで指を怪我したとき、ヨシハラ先生が保健室で手当てをしてくれた。彼女は泣き顔の私に「帰ったらお母さんが心配しちゃうね。『あら~○○ちゃん、どうしたの?かわいそうに~』って」と笑わせようとした。私は鼻をスンスン言わせながら(逆に『どうしたの!?』って怒られそうだな)と怖くなった。

初めての運動会の練習、まずは開会・閉会式の整列の仕方だった。1年2組の女性教師が指示を出していた。彼女は「動かないように!」と大きな声を張っていたが、しゃがんだり足で土遊びをしたりする生徒がいたようで、何度か同じようなことを叫んだ後、今度は名指しで注意し始めた。男子の名が次々と呼ばれる中、私は(どの辺の子だろう)と横を見た瞬間、「○○動くな!」と私の名が響いた。私は頭が真っ白になった。(なぜ?私は手足を動かしていない、列も乱してないのに)そんな反論がいくつも浮かんできた。納得がいかず、泣きそうになった。結局、その練習で注意を受けた多数の生徒の中で、女子は私だった。私はこの出来事以降、この先生に好意的な思いを抱くことは無かった。

2年生、担任は引き続きヨシハラ先生だった。よく男子にからかわれていたが、彼女はあしらったり流したりせず、からかいに乗っかりに行くようなユーモアがある人だった。彼女はこの年の最後に別の市の学校へ異動となった。

隣の地区で同じ下校班のザキっち。同じクラスになって仲良くなった。当時は、母から地区を超えて遊びに行くのを禁止されていたが、彼女の家に行くのは許された。

3年生、ヤスハラ先生。20代後半から30代前半の女性で、首元で切り揃えられた髪がサラサラとしていて、くせ毛の私はそれが羨ましかった。黒板でも連絡帳でも、この年から始まった習字でも、キレイで整った字を書く人だった。水色が好きで、ジャージも車のキューブも水色だった。彼女もこの年を最後に異動になった。そして私が高校生の頃に、あるお店の駐車場で再会した。彼女は結婚をして子を持つお母さんになっていた。髪型は変わっていたが、他はほとんど変わっていなかった。水色のキューブも現役だった。

4年生、タナベ先生。背が低くお腹が出た中年の、初めての男性の担任だった。第一印象はその見た目とガラついた声のせいで良くなかったが、大ざっぱさの中にも気配りを忘れない人で、母が連絡帳に何か書くと、丁寧な返事を書く人だった。女性とは違った迫力があって怒られると怖かったが、普段は優しいおっちゃん先生だった。給食のとき、先生用のご飯の箱には輪ゴムがついていた(多分生徒のより多く入っているため)が、それを当時大食いだった私のと交換してくれたり、「ダイエットだから」とご飯の半分をくれたりした。次の年から、彼は教頭先生になった。

5年生、名前は忘れてしまったが男性の先生。背が高く見えたのは、背筋を伸ばし胸を張る理想的な姿勢だからなのか、本当に高かったのか分からないが、いつでもその姿勢を崩さなかった。音楽大学出身で専攻は声楽らしく、朝の会での歌や音楽の授業での彼の声は今でもよく覚えている。特に6月の朝の課題曲「夏の思い出」を、教室の小さなオルガンを弾きながら歌う姿。オルガンと彼の声の哀愁漂うのを感じが印象深かったのか、「尾瀬」「水芭蕉」「石楠花色」、当時は全く意味が分からない言葉が多かったせいなのか。ちなみに今でも意味は分からない。また、彼は頭髪が薄いことを気にしていた。40代半ばにして、頭頂部はすでに、はげていた。彼がそれに気づいたエピソード、「大学生の頃、雨が降る中にいたら頭の一部だけやたらと冷たく感じた。それで自分は髪が薄いことに気付いた」と話す彼の動きや表情を、私は今でも覚えている。真面目さが言動に出ていた、というか出過ぎて笑ってしまうような、いい先生だった。

この頃から友人関係があからさまに変わり始めた。各クラス男女それぞれに大人数のグループ1つと少人数のがいくつか、という形が出来上がっていた。私は、(ザキっち改め)ザキと離れたくなかったため、大人数に引っ付くようにしていた。その中のある1人が、段々と数人が、私を嫌がり始めた。机をくっ付けようとしない、移動教室の時に走って逃げられる、菌扱いされる、中心的人物には「背中が毛だらけだ」と見つかり、余計に避けられるようになった。﨑とは相変わらず彼女の家で遊んでいたが、たまにそのグループの何人かがいたりして、私が途中で帰ることもあった。ついでにある日、家の中で録画した「MUSIC STATION」を4,5人で観ていたときの話。当時の女子の中では、嵐かHey! Say! JUMPのアイドルグループが人気で、どちらかが出演した回を観ていると、槇原敬之も出ていた回だった。「GREEN DAYS」を歌う彼を「こいつキモイ」とある奴が言い放ち、私以外の人たちもそれに乗じて、どんどん過熱していった。その一部始終、誰がどこに座りどんなことを言っていたのか、鮮明に覚えている。私が初めて殺意を実感した出来事だ。

6年生、担任は最悪なことに私と同じ名字だった。彼のことはPodcastで話したので、そちらを聴くか、らじお詞の更新をお待ちください。

登校班の班長になった。私の地区は2班各々10人いない程度で、集合場所に全員揃った方から出発するシステムだった。集合場所は民家の横で、そこに住む人が子供たちに時間が分かるようにと、小さな時計を置いてくれていた。大体8時前後に出発するのだが、私の班には最も家が近いのにかなり遅れてくるか、迎えに行くまで来ない問題児の2年生がいた。ある日は少しだけ遅れたり、ある日は割と早く来たり、ある日は迎えに行くと学校を休むなどと言われ、私は子供ながらに「親に問題があるな」と感じた。数ヵ月そんな毎日だったある日、私は「もういい加減にしろ」と思い、その子を置いて出発した。学校まで歩いて20分位かかるのだが、半分ほど行った所のコンビニに近付くと、駐車場からその親子が勢いよくこちらに向かって来た。母親が「なんでこの子を置いて行ったの!?」と涙目で、当時は知らなかった言葉、ヒステリックに、私に言った。私が「毎日、何の連絡もなく、時間通りに来たり来なかったりするから」と言っていると、低学年の副担任が車で通りがかったようで、同じく駐車場から私たちに近付いて来た。彼女は母親の言い分だけを聞き、「それはあなたが悪い、置いて行くのはダメ」と私に言った。色々言い返そうと思ったが、当時の私は出来なかった。悔しくて、泣きそうになった。大人2人が去り、問題児も加えた班で向かっている最中、私と最も家が近い幼馴染の男子が気を使って「○○は悪くない」という旨の言葉をくれた。後日、地区担当の先生からその朝の一連の出来事について話を聞かれ、数ヵ月間続いていたことを話した。彼は困り顔で「どっちが悪いとは言えない」といった話で終わった。私は班の問題児のことを母に話していたので、もちろんこの出来事も話した。母は「○○が悪いとは思わないけど、今度から気を付けなきゃね」というようなことを言った。その後の問題児は時間前に来ることが増えた。来ない時は置いて行っても何も言われなくなった。今振り返ると、母が問題児の家に電話したかもしれない。(当時は自治会の活動が活発で、子供会や高齢者の集まり、季節ごとの行事があり、当時役員だった我が家では母が幅を利かせて動いていたり、父は学校のPTA副会長だったり、それらが作用したとも考えられる)

皆が外に行く休み時間は、教室で本を読むことが多かった。ずっと前から家にあった「怪盗クイーンはサーカスがお好き」の表紙のピエロ、私が小さい頃はそれが怖かった。その年に試しに読んだら、見事にハマり、シリーズの「怪盗クイーンに月の砂漠を」まで読んだ。シリーズの中で好きな話は、その怖がっていた1冊である。

親に「中学受験をする」と言ったのは、学校から母の運転で帰る車内で、家のある地区内に左折で入るタイミングだった。「あんたそんなこと考えてたの!?急いで準備しなきゃダメじゃん!」みたいなことを言われた。多分6月だったと思う。後の母曰く「急だったし、資料取り寄せとか受験勉強とか推薦はどうするとか、困惑した」と。第一志望は、兄たちが通っているからという理由で決めた。推薦はあっさり貰え、4年生から通う塾の先生は「まあ○○さんなら過去問やっとけば大丈夫でしょう」と、別の授業を増やすなどはしなかった。試験日は12月7日の日曜日で、土曜日の夜まで過去問を解いていた私は、突然「今更やっても変わらん」と思い、問題の途中で答え合わせもせずにさっさと歯を磨いて寝ることにした。(この行為は中学でも続き、前々日まではみっちり勉強するが、前日にはゆるゆるとノートを見るだけ、といった感じで)翌日、試験は国語数学面接の3つで、特に面接は何の対策もしていない、その上私には「面接」というイメージすら浮かんでいなかったので、緊張した。面接官は男性で、入学後には私の学年の理科(生物)担当の先生だった。最も覚えている質問は「尊敬している人は誰ですか?」、私は「2人の兄です」と答えた。理由は要約すると「2人の兄は友人想いで、学校では彼らに勉強を教えているようだ。私もそうなりたい」といった感じで答えた。(実は兄たちが中学生の頃、母は三者面談の日に私も連れて行った。面談中は生徒がいる兄の教室の兄の机で、折り紙をしたりお絵かきをしたり。すると彼らは構ってくれたり、遊んでくれたり、普段の兄の様子を教えてくれたり。それが楽しかったし、兄たちと彼らの関係性も分かった気がした。特に兄の漫画の「よつばと!」を読んでいたらすかさず「それ、オモシロいよね」と話しかけてくれた人がオモシロい人だった。後に母から「大体どの面談の後も『○○の妹』話が教室内で持ち上がるらしく、ある意味有名だった」と聞かされた)合格通知は10日の水曜日に郵送で届いた。その日の中休み(10時20分)に私は学校の公衆電話から家に電話をした。何故かそこには大グループの数人が付いて来た。母は「まだ届いてない、普段はお昼頃に郵便屋さんが来るけどねぇ」と言った。今度は給食前(12時15分)、同じメンバーで電話をしに行った。電話に出た母は「ちょうど今来たよ………おめでとうございます!」と大きな声で言った。私がその言葉に喜んでいる間に、周りにいた子たちが走って教室に戻って行った。母との電話を終えて私が教室に着くと、もうその話が広がっていた。私は大きな喜びの中に、「私が1番最初に皆に言いたかった」という黒い穴を感じながら、皆からの「おめでとう」に返事をしていた。

年が明けた頃、5年生から続いていた大グループの中心的存在の子がハジかれ始めた。休み時間には教室にいるようになり、オルガンを弾く私に話しかけてくるようになった。ザキと2人で遊んだときに、「あの子に皆が付いて行けなくなった。それで皆が離れていった」というような話を聞いた。私は彼女から散々嫌なことをされたが、彼女を無視できるような性根ではなかった。結局、一緒にオルガンを弾くようになった。後の卒業式云々の際、文句を言った生徒、特に女子は多数いたが、最終的に別案を出して抗議したのは私と彼女だけだった。

卒業式では各々が行く中学の制服を着た。中学受験をした生徒は数人いたが、結果的に違う中学に行くのは、私の他にもう1人だけだった。皆が紺色の制服の中、私のは赤っぽい色だったので目立ったし、それが格の違いを見せているようで誇らしかった。式後には和食屋さんで食事会が用意されていた。私は、他のクラスのそんなには遊んだことがないが嫌いではない子と一緒にいた。じゃんけんをし、負けた方の背中に氷を入れる遊びをした。

その後、小学生時代の同級生とは直接連絡を取っていない。唯一、私の幼稚園からの幼馴染(第34回参照)とは年に数回LINEをするが、他は母からママ友情報として聞くのみだ。

Podcastでは「嫌な思い出しかない」と散々言ったが、担任の先生たちのことはよく覚えていたもんだ。モヤモヤを晴らしたいがために書き始めたので嫌み恨みだけになると思ったが、その限りではなかったことに安心した。

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