”異端なスター”を照らすライト
みなさん、ヒゲダンの楽曲『異端なスター』にどのような印象を抱いているだろう。おおかた、インディーズ時代の名曲とか、ヒゲダンお得意のファンクにのってボーカル藤原のパワフルな歌声が高らかに響く人生の応援歌、というイメージを持っているのではないだろうか。歌詞に勇気づけられると言う人も多い。かくいう私も「何か変えたいならどうか歌って」という力強い言葉に勇気をもらった。
しかし、力強い言葉は、裏を返せば攻撃的な言葉にもなる。ひねくれた見方をすると、この曲の歌詞は表舞台に立ちたいと願う人間、ひいては作詞者の藤原のエゴの現れともとれる。
異端なスターはどこが異端なのか。それは歌詞にもある通り、ユーモアセンスや美貌、頭の良さ、協調性が“ない”ところだろう。そんなものなくたって別の特技でスターになってやる、という決意に満ちた異端なスターは、誰にも譲れない夢を持つエネルギッシュな人物だ。
しかしそんな異端なスターも「照らすライト」、すなわちスターを讃える観衆がいなければ、スターとして存在できない。舞台はあるかもしれないが、誰もいない真っ暗な壇上で歌ったところで何になるだろう。
素晴らしい技術・特性をもって“歓声を浴びる人物”こそが「スター」であると定義するなら、「照らすライト」の存在は無視できない。ステージから見れば小さな光の粒かもしれないが、一つひとつに人生がある。それはかつて(または現在進行形で)「照らすライト」であった異端なスターも例外ではない。
僕らは後ろをついてまわって
照らすライトの1つとなって
それが『人生』 醜いリアルだ
スターをスターたらしめる「照らすライト」として生きる人生を「醜いリアル」と評することの、なんと危ういことか。世間の脚光を浴びて初めて、スターはスターとして存在できるというのに。
しかし、藤原は別に誰も貶していない。ここまで批判的なことを言っておきながら、手のひらを返すようなことを言うのも、少々おかしいかもしれない。だが実際にこの曲を聴いて腹を立てる人は稀だろう。先ほどまでの批判が成り立たないのは、藤原が『異端なスター』の歌詞で励ましているのが、他でもない彼自身だからだ。
それは『異端なスター』について語られた、過去のインタビューをひもとくと明らかになる。
『このバンドを結成してヴォーカルを始めようとした時、“なんで君が歌うの?”“楽器だけやればいいのに”と言われたことがきっかけで作った曲です。自分は“調子に乗るな”とか“出しゃばるな”という言葉が嫌いで、新しいことを始める時だったり、自分が本当にやりたいことに対する周囲の批判に負けず、しっかり主張していくべきというメッセージを込めました。』
このインタビューから分かるように、「照らすライト」はただの観衆を指す言葉ではなく、なりたいものがあるのに、周りの批判に尻込みして何も行動しないままでいる自分を揶揄するものだ。本当にやりたいことを無視して無難な選択をする人生は「醜いリアル」と呼ぶことができるだろう。
「いい子になんてならないで!」と「醜いリアル」を脱する本心からの選択を肯定し、最後には「怖がらずにどうか叫んで歌って」と歌う『異端なスター』には、自分の背中を押すためだけの言葉が並んでいる。だから、楽曲を聴いた者はリスナーとしての人生を蔑ろにされた怒りを覚えるのではなく、自分の進みたい道に向かう勇気をもらうのだ。
今では、藤原、そしてヒゲダンはもう異端ではなくなった。異端であるまま正統な道を歩むスターになった、と言うべきか。
月9ドラマの主題歌に抜擢され、映画版の主題歌が流行し、武道館公演もやり遂げ、紅白にも出場し、私がこのnoteを書いている2022年2月現在は40公演以上にわたるアリーナツアーの真っただ中。紛うことなきスターだろう。
それでも彼らは今もこの曲をライブで披露し続けている。それは、最初の一歩をなかなか踏み出せずにいる人々へのエールなのかもしれない。煌々と照らされた広いステージの真ん中で『君なら出来るからどうか歌って』と歌う藤原の瞳には、未来の“異端なスター”の道しるべとなるであろう、温かい光が灯っている。
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