【第7章】奈落の底、掃溜の山 (23/23)【障壁】
【手懸】←
「社長は……本社の、中枢から……絶対に、出てこない」
過呼吸気味のシルヴィアが、かろうじて口を動かす。アサイラは、怪訝な顔をする。
「引きこもっているとして……そんなに、警備が厳重なのか?」
「そりゃ厳重だわ、本社だもの……でも、それだけじゃない。それ以前の問題だわ」
『淫魔』は、シルヴィアを背もたれに寄りかからせて、呼吸のしやすい姿勢にしてやる。その後、自分は立ち上がり、部屋の中央を向く。
「シルヴィアはともかく……私やアサイラは、まず、絶対にセフィロト本社のなかに入れないのだわ」
「なぜだ?」
「これから、見せてあげる」
『淫魔』は目をつむり、空間に右手をかざす。アサイラが何度もくぐってきた、次元を超える『扉』が虚空に現出する。
「本社のアドレス自体は、エージェントなら皆、持っているから。『扉』を作ること自体は、簡単だわ。でも……」
隙間から向こう側に伸びる闇の空間が見える『扉』は、いつもと寸分違わないように見える。
「……絶対に、くぐっちゃだめだわ」
『淫魔』は、アサイラに念を押す。『淫魔』は、テーブルのうえにあったメモ紙を手に取ると、器用に紙飛行機を折っていく。
できあがったペーパーグライダーを、『淫魔』は『扉』に向かって投げ飛ばす。紙飛行機は、一直線に『扉』の隙間に吸いこまれていく。
──バチイッ!!
突然の電撃音とともに、緑色の雷光がほとばしる。『扉』の向こう側に入り込もうとした飛翔体は、焼け焦げた消し炭と化して、部屋に散らばっていく。
「……見ての通りだわ」
『淫魔』は、『扉』を消しながら、肩をすくめつつ、アサイラのほうを振り返る。
「セフィロト本社が存在する次元世界<パラダイム>は、とんでもなく強力な次元障壁で守られている。入るには、まずこれを突破する必要があるのだわ」
「……例外は、社員証を持つエージェントと、その同伴者のみ」
身を起こしたシルヴィアが、『淫魔』の説明を補足する。
「これにも、厳しい生体認証チェックがついてくる……」
狼耳の娘は、女エージェントの顔に戻り、深いため息をつく。『淫魔』は、ためらいがちにシルヴィアのほうを指さす。
「……いまなら、まだ、シルヴィアは本社に戻れるのかもしれないけれど」
「くぅん……」
犬のような鳴き声をあげながらシルヴィアは、びくっと身を震わせる、狼耳としっぽの毛が、逆立つ。それでも、必死に腕のけいれんを抑えようとする。
「マスターの……命令なら……」
「……無し、だな」
「賛成だわ」
アサイラと『淫魔』は、互いにうなずきあう。
「つまり、この次元障壁とやらを破壊する方法を探す必要がある、か」
「あんたね……この防壁に、どれくらいの導子力を注ぎこまれているのか……小さな次元世界<パラダイム>を余裕で維持できるレベルだわ」
アサイラは、親指で自分の心臓を指し示す。
「俺のなかにある導子力は、どうなんだ?」
アサイラの身体に内在する導子力は、小型の次元世界<パラダイム>の構成量を、ゆうに凌駕している──
それが、『淫魔』自身の見解だった。アサイラの驚異的な再生能力も、肉体の異様な頑強さも、そう考えれば、つじつまが合うらしい。
「まあ、次元障壁と同じだけの導子力を汲み出して、ぶつけてやれば、壊せるのかもしれないけれど……」
「つまり、俺のなかから、大量の導子力を放出する方法を見つければいいわけか」
『淫魔』は、ため息をつきつつ、あきれたように天井を仰ぐ。ウェーブのかかった己の髪を、人差し指でくるくると絡める。
「そういえば、もとから、あてのない探索行ではあったのだわ。そこに、実現困難な前提条件が付け加わっただけ、ね」
「よくわからないが……こちらでよければ、マスターを手伝う」
『淫魔』は肩をすくめながら、やれやれ、と首を振る。
シルヴィアが、狼耳をぴんと伸ばしながら立ち上がる。
二人を前にしたアサイラの瞳には、妄執ともいえる強い蒼黒の光が宿っていた。
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