【第7章】奈落の底、掃溜の山 (22/23)【手懸】
【忠犬】←
──プシュッ。
ボトルのキャップが開くと、充填されたガスが吹き出す音が響く。左手一本で開封するのは、少々、難儀だった。
キッチンの片隅に置かれた冷蔵庫、そのなかにあったミネラルウォーターのボトルを、アサイラは手にしていた。
容器を仰ぎ、無色透明な液体を一口含む。長風呂になって脱水症状ぎみだった身体に、よく冷えた水分が染み渡る。
アサイラは、ふと、ガレキの次元世界<パラダイム>で出会った小人たち──ワッカとその仲間のことを思い出す。
「世話ばかり、かけちまった……か」
アサイラは、味わうようにミネラルウォーターを飲む、乾いた身体には、ほんのりと甘みが感じられた。
ワッカは、パラダイムシフターではない。つまり、自力で次元世界<パラダイム>間移動はできない。
彼らは、これからもあの世界で暮らしていくのだろうか。そして、この旅を続ける限り、こうした出会いと別れを繰り返すのだろうか。
アサイラは、漠然と考えながら、半分ほど中身の残ったボトルを手に、キッチンからダイニングルームへと戻る。
「うん、うん! 似合っているのだわ、シルヴィア」
「そう……か? そうだと……いいな」
クローゼットの戸を大開きにし、姿見の鏡を前にした二人──『淫魔』とシルヴィアを見て、アサイラは口に含んだ水を、思わず吹き出しそうになる。
「アサイラ! ちょうどいいときに戻ってきたのだわ。見て見て」
「ひょこッ、マスター! この格好、似合っている……かな?」
シルヴィアは『淫魔』に促されて、大鏡からアサイラのほうに向き直る。頭の耳は水平に伸び、スカートの後ろからのぞくしっぽが小さく左右に揺れている。
獣人娘が身につけていたのは、フリル付きのカチューシャに、リボンの装飾がついたエプロンドレス──いわゆる、メイドの衣装だった。
『淫魔』のコレクションの一着だけあって、スカートの丈はだいぶ短い。ニーハイソックスとスカートすその狭間から、素肌の太ももがのぞいている。
「ミニスカートだと、しっぽを拘束しなくていいのだわ。実用性重視!」
アサイラの思考を見透かしたかのように、『淫魔』が言う。『淫魔』もまた、ペアルックのメイド装束を着用し、アサイラに挑発的な視線を向ける。
「……で、この格好はどうだ? マスターの好みでなければ、ほかの服でも」
「そうねえ。ほかに似合いそうなのだと、チャイナドレスとか、大胆にボディコンシャスとか、思い切ってスクールガールって手も……」
「……それよりも、俺の目的がどうのって話だったか? シルヴィア」
アサイラは部屋の丸テーブルのうえに飲みかけのボトルを置き、いすに腰を降ろしながら言う。話題をそらす意図もあった。
メイド姿の獣人娘は、真剣な目つきになって、姿勢を正す。
「俺は、自分の故郷に帰ろうとしているんだ」
「アサイラは、私やシルヴィアと同じ、パラダイムシフターだわ。つまり……」
「……もといた次元世界<パラダイム>から、はじき出された」
シルヴィアは、自分のなかで整理するようにつぶやく。
「セフィロトエージェントの社員証を集めていたのは……」
「次元間移動<パラダイムシフト>のための、アドレスを手に入れるためだわ。もっとも、シルヴィアの金色の社員証があれば、当分は必要なくなるけど」
『淫魔』が言うには、金色の──スーパーエージェントの社員証には、ほかのものとは比べものにならない大量のアドレス情報が書きこまれているらしい。
「マスターは、自分の故郷がどんな次元世界<パラダイム>だったか、覚えている?」
「そこが、やっかいでね。アサイラはそこらへん、記憶喪失なのだわ」
「……『蒼い星』って呼ばれていたのだけは、覚えている、か」
アサイラが『蒼い星』という言葉を口にしたとたん、シルヴィアの耳がピンと垂直に立ち、小刻みに身を震わせはじめる。
「ちょっと……だいじょうぶなのだわ?」
「問題ない……けど、少し座らせてほしい、な」
シルヴィアは、『淫魔』に身を支えられ、丸テーブルを挟んだアサイラの対面のいすに座らせられる。顔面から、血の気が引いている。
『淫魔』は、小走りにキッチンへと消えて、アサイラが飲んでいたものと同じボトルを持って、獣人娘の前に置く。
「はい。お水でも飲んで、落ち着くのだわ。それでもだめなら、深呼吸して」
「ありがと……」
シルヴィアは、震える手でボトルをつかみ、口のなかをミネラルウォーターで濡らす。それでも、狼耳と指先の震えはおさまらない。
『淫魔』は、獣人娘の背中をさすってやる。
「……つらいなら、この話は、いったん止めにするか?」
「それがいいかもだわ」
アサイラと『淫魔』の会話に対して、シルヴィアは首を横に振る。
「これは、大事なことだと思うから……マスターには、伝えなきゃ……」
獣人娘は、メイド装束の胸元に手を当て、数度、深呼吸する。そして、唇を震わせながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……社長も、『蒼い星』から来た、と言って、いた……」
シルヴィアは、ひどく難儀そうに息を吐く。
「社長って……セフィロト社の!?」
獣人娘の身を支えながら、『淫魔』が尋ねる。シルヴィアは、苦しげにうなずく。
「ということは、セフィロト社の社長に会えば、俺の故郷のことがわかる、か?」
「……それは、最上級に困難だわ」
「こちらも……そう、思う……」
丸テーブルの向こう側にいる二人が、そろってアサイラの言葉を否定した。
→【障壁】
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