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調布飛行場連中 その1

飛行場は僕の遊び場
 甲州街道を新宿から調布方向へと向かい、鶴川街道との交差点を過ぎるとすぐに中央道(中央高速道)の調布インターチェンジがある。
 その中央道が甲州街道に覆い被さった上石原交差点を右折し、天文台通りを進む。ほどなく左手に公園やグランドが見えて来る。
 かつてここは広大な調布飛行場の敷地の一部だった。その頃は遮るモノがほとんど無く、滑走路を見渡す事が出来た。
 調布飛行場は中学生の頃から僕のお気に入りの遊び場だった。その頃の飛行場には、何に使ったのかさっぱり分からない、しかし子供の遊び心を刺激する不思議なモノがいろいろあった。
 その頃の調布飛行場の正面ゲートは、まだ閉ざされていた。しかしゲートを支える右側の門柱と、さらにその右側を流れる用水路との間に、自転車くらいなら通れる僅かなスペースがあった。僕はいつも、そこから飛行場の中に入って行った。

知らなかった掩体壕の役目
 正面ゲートから奥へと延びる舗装道路を進んで行く。その道路が急に右にカーブし始めた左側の草地に、先のすぼまった大きなパイプを半分に切って埋めたような、粗い質感のコンクリートで出来たドーム状のモノがあった。
 これは太平洋戦争中の戦闘機、それも日本軍戦闘機では珍しい液冷エンジン搭載の三式戦「飛燕」を格納した掩体壕だった(さらに珍しい局地戦闘機「雷電」もあったらしい)。敵機に発見され難くするためだろうか、掩体壕は全体の高さを抑えるように半地下状で、中に入るには傾斜を下るようになっていた。当時はそんな目的で作られたモノだとは全く知らずに、自転車でその中に入ったり、ドームの上に登ったり、そこで寝転んだりして遊んでいた。

給水塔からの見晴らし
 右カーブを過ぎると道路は400メートルほどの直線路になる。直線路を進むと掩体壕から100メートルほど離れた場所に、直径の異なる二つの円柱を積み重ねたような形状をした、高さ15メートルくらいの塔があった。その塔には、直線道路に並行して流れる小さな用水路に架けられた、幅の狭い短い橋を渡って行った。
 塔は掩体壕と同じような粗い質感のコンクリート製だった。この塔も戦時中に給水塔として使われていたそうだ。用水路に渡された狭く短い橋も、戦時中に架けられたらしい。
 塔の側面には鉄製のハシゴが付いていて、真っ平らなてっぺんまで登る事が出来た。僕は同級生と、たまには一人で、てっぺんまで登ってお菓子を食べたり、ジュースを飲んだり、周囲の景色を見渡したりして楽しんだ。
 今になって思うと手摺も柵も無く、危険な事この上ない場所だった。でも子供の頃は誰しも、こういう小さな冒険の真似事が大好きだ。

仮宿舎跡とテレビドラマ
 塔の近くには廃屋になった平屋の長細い木造の建物が、たぶん二棟だったと思うが、平行に並んで建っていた。その建物は戦時中の飛行士の仮宿舎だったそうだ。しかし人が居住していた施設とは思えないほど、生活感は残っていなかったように思う。それは兵士の宿舎と民間の住居との違いなのだろうか。
 大学生の頃だったと思うが、夕飯を食べ終えて、実家の居間でぼんやりとテレビを見ていた。番組名は忘れたが「アクション系の刑事ドラマ」をやっていた。画面に何となく見覚えのある風景が出て来た。調布飛行場の仮宿舎の辺りだった。画面を凝視していると、やがてクルマが突っ込むか爆発するかして、その宿舎がメチャクチャに破壊されてしまった。
 もの凄くビックリしたのと同時に、ひどく悲しい気持ちになった。いくら廃屋であっても、あのような壊し方はどうかと思う。もちろん自分の所有物では無いが、大切なモノを壊されたような嫌な気持ちになった。日本のために戦った、戦時中の飛行士の仮宿舎だったという事を知った今、なおさらそう思う。
 その後、仮宿舎跡は壊れた建物がすっかり撤去され、広々としたコンクリートの基礎だけが残った。

後から載せられた管制塔
 現在運用されている管制塔は、誰が見ても「これは管制塔だ」とはっきり分かるくらいに、小さいけど立派な管制塔だ。
 しかし昭和四十〜五十年代当時の管制塔は、あちこちに穴の開いたボロボロの巨大なカマボコ型の格納庫の上に、いかにも後から載せたような、管制塔というよりは仮設小屋みたいな代物だった。その管制塔に行くには半円形の屋根に沿って、これまた後付けした階段で登るようになっていた。その階段には屋根は無かったが、さすがに手摺だけは付いていた。登り降りは結構スリルがあったのではないだろうか。
 管制塔の台座となっている格納庫は太平洋戦争中に建てられたらしいが、管制塔や階段は戦後になってから後付けしたようだ。戦時中は他の場所に管制塔があったのだろうか。

遺構として残ったモノ
 これら太平洋戦争当時の構築物の多くは、その後も平成と元号が変わる昭和の末期くらいまでは残っていたと思う。二十一世紀の今では、正面ゲートの門柱や掩体壕などが「遺構」として、ごく僅かだが保存され残っている。
 平成時代になって調布飛行場は正式な「東京都調布飛行場」として再開発された。それに伴い市民グランドや公園やカフェ、滑走路西側の関東村と呼ばれていた米軍居住地のゲートがあった辺りには、Jリーグのホームグラウンドの「味の素スタジアム」、さらには東京外国語大学や警察学校まで出来た。
 調布飛行場と関東村の跡地は、今では立派な施設が立ち並び、著しくメジャー化した。昭和の頃に毎日のように遊んでいた、古びていて閑散とした「僕らの調布飛行場」ではなくなった。
 僅かに残された掩体壕も「遺構」のため柵で囲われ、今では中に入ったり登ったりして遊ぶ事は出来ない。さらに大変残念な事に、僕の遊んだ掩体壕や給水塔は完全に撤去され、跡形も無くなってしまった。
 今やそこは市民グランドや公園になっていて、休日は子供達の歓声で溢れ、昭和の面影や太平洋戦争の残滓は見当たらない。市民グランドや公園を訪れる人々は、戦時中の遺構がある事すら知らないだろう。
 遺構として保存された掩体壕の傍には解説を記載した看板が立てられている。この解説板を見ると、当時はかなり広範囲に渡ってあちらこちらに掩体壕が設けられていて、僕の実家の辺りにも存在していたようだ。実家が建てられたのは1960年代の初めだが、周囲にそれらしい痕跡は全く見当たらなかった。
(つづく)

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