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調布飛行場連中 その4

今も残る二本の木
 僕は加藤君や小宮山君と知り合った事で、以前にも増して調布飛行場に行くようになった。平日はほぼ毎日、学校が終わって夕方から、土日は午後に何回か行った。誰もいなければ近所でバイクを乗り回しまた行く、という事を繰り返した。誰かがいれば、そのままバイクの事や世間話をしていた。そんなたわいもない時間がとても楽しかった。
 誰ともいちいち会う約束はしなかったし、そういう事にこだわらない、極めてユルイ関係が気持ち良かった。でもたまに、いつまで経っても何回行っても誰も来なくて、誰にも会えない事があった。そんな時は少し寂しかった。
 僕らの集まる場所はいつも決まっていた。特に決めた訳ではなく何となくそうなっただけだ。調布飛行場の滑走路に沿った直線道路から、少し滑走路寄りに引っ込んだところに、草地に囲まれた舗装された小さなロータリーがあった。現在の立派になった管制塔とオシャレなカフェの中間辺りだろうか。そのロータリーの外側の草地に、何の木か忘れたが(というより元々知らないが)二本の木が寄り添うように植わっていて、その木陰辺りでたむろするのが常だった。この二本の木は調布飛行場の平成の大改修でも伐採される事は無く、今でも草地の一角に涼しげな木陰を落としている。

キッチリしている小宮山君
 加藤君の友達の小宮山君は、ホンダXL250に乗っていた。XLというとオフロードバイクのイメージだ。しかし小宮山君のXL250は、本格的オフロード系になる前のモデルで、ホンダではデュアルパーパスと呼んでいた。
 小宮山君は、加藤君のようにTシャツにノーヘル(当時の原付では違法ではない)というラフな出で立ちではなく、夏でも長袖にブーツというキッチリした服装でやって来た。彼は性格もキッチリしていて、バイクはいつもキレイに手入れがされていた。
 この点でも加藤君の少し年季の入った、なおかつ掃除不足気味のCD50とは対照的だった。彼のメインバイクのRD250も、CD50と同様に掃除とはあまり縁が無いようだった。加藤君はタンク以外は磨かない(掃除しない)そうで、彼のバイク掃除の概念とは「タンクを磨く事に尽きる」のだそうだ。だからRD250もタンクだけは、常にワックスでピカピカだった。

ブルックランズのマフラー
 小宮山君というと忘れられない出来事がある。彼が「ブルックランズ」という有名パーツショップのXL250用ダウンマフラーとエキパイを手に入れた。マフラーは中古でエキパイが新品だったと思う。そして加藤君の実家の車庫で、僕を含めて三人で交換作業を開始した。
 まず、モノ凄く重たい二段階の消音室を持つノーマルマフラーを外した。こんなに重かったら、重心が偏って真っ直ぐ走れないんじゃないかと思うくらい重かった。これだけ重いのだから、ダウンマフラーでの性能云々以前に、軽量化によっても性能向上が図れるだろう。
 そしてノーマルのエキパイを外す段階になった。しかしエキパイのフランジナットに合う「メガネレンチ」が無い事が判明した。でもサイズの合う「片口スパナ」ならある。
 小宮山君はここで作業を中断しようかと迷い始める。メガネレンチならナットに傷がつきにくく、かつ確実に外す事が出来る。しかし片口スパナだとナットをナメ易く、最悪はナットがナメてしまい外せなくなる。つまり作業が強制終了となる可能性もある。その後の修復作業にも、たっぷりと手間が掛かる事だろう。おまけにその片口スパナというのは精度の劣る「車載工具」だ。
 一方、僕と加藤君の本音としては、ここまでやったのだから最後まで作業を続けて欲しかった。マフラーが交換されてガラリと印象の変わった(であろう)XLをぜひとも見たかった。銘品「ブルックランズのダウンマフラー」を装着したXL250と、そのエキゾーストノート(排気音)に興味津々だった。言い換えれば、それを楽しみに手伝っていたのだから、ここで「それでは、続きはまたの機会に・・・」となってしまったら、甚だしく欲求不満だ。
 しかし、そんな外野勢の興味本位のプレッシャーなどモノともせず、自分の意志を貫き通す強さを持っているところが「キッチリ」している小宮山君の真骨頂だ。予想通りに作業はその時点を持って、僕と加藤君の落胆と共に終了となった。
 僕が小宮山君の立場だったら絶対に作業は続行していただろう。ここまで来てマフラーの交換されたバイクを見ない訳にはいかない。劇的に変化した(であろう)エキゾーストノートを聞かない訳にはいかない。ナットをナメようが万が一外せなくなろうが、出来るところまで続けない事には、我慢ならなかっただろう。
 今では僕もそこまで拙速ではなくなり、工具も一通り揃えている(当時は車載工具+αでキャブの分解清掃くらいまでやっていた。今では考えられないくらい適当かつ非常識だ)。しかし当時はガキ真っ盛り。我慢する訳がなく「取りあえずやれるところまでやる」が座右の銘だった(あくまでも僕の場合)。だが実際にはほとんどの場合、失敗して後悔する事になった。部品をダメにして同じ部品を再び買ったり、ナメたボルトやナットを四苦八苦して外す事が多かった。
 でも小宮山君はそんな欲望に負ける事はなく、常に確実な道を選ぶ。僕よりも年下なのに彼はずっと大人だ。今さらながらにそう思う。
 でも正直言って当時は「やれやれ、ここまできて止めるのかよ」とガッカリしただけだった。
(つづく)

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