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調布飛行場連中 その2

関東村は近未来都市
 調布飛行場の西側には、隣接した広大な敷地の「関東村」という名称の米軍居住地があった。僕が中学生だった1970年の初め頃の関東村は、まだ日本では無くアメリカだった。例えではなく、まさにアメリカの施政権下にある占領地そのものだったのだ。
 そこには米軍人やその家族が居住していた。その住宅は低層の鉄筋コンクリート製で、今でいうテラスハウスとかコテージのような立派でオシャレな、当時としては著しく近代的な建物群だった。広い敷地にポツンポツンと住宅と住宅とが、かなりの距離を空けて建ち並び、おまけに巨大なボイラー設備が別施設として有り、各住宅への給湯や暖房を賄っていたそうだ。冷房設備も有ったのかも知れない。住宅街を丸ごとセントラルヒーティング化していて、まるで近未来の都市のようだったと言ったら大袈裟だろうか。
 かたや木造建築で雨戸も窓枠も木製(アルミサッシはまだ普及してない)で、隙間風が普通に入り込み、給湯も台所の後付け瞬間湯沸かし器くらいしかない、当時の日本の平均的住宅事情からは考えられない夢のような住宅群だった。

関東村の子供とお菓子屋さん
 関東村と日本を区分する金網のフェンス(法的には日本とアメリカの国境に相当する)から片側一車線の道路を隔て、小ぢんまりとしたお菓子屋さんがあった。
 ある時お菓子屋さんの向かいのフェンス際に、アメリカ人とおぼしき子供達が集まっていた。何をしているのかと様子を見ていたら、子供達とお菓子屋のオバさんが英語で会話をしていた。
 関東村の子供達がそのお菓子屋さんに直接行くには、かなり離れたところにある甲州街道沿いのゲートまで行き関東村の区域外に出て、つまりアメリカから日本に出て、グルリと遠回りをする必要があった。だから子供達は直接店には行かず、最短距離である「国境」のフェンス越しにお菓子屋のオバさんに声を掛け、食べたいお菓子を買い求めていたのだ。
 また、これは僕の勝手な想像だが、当時外国人の子供に対するイジメのような事があったのも一因かも知れない。ある時、関東村の周辺を一人で歩いていた外国人(に見える)の子供が、自転車に乗った日本人(に見える)の子供達に蹴られているのを目撃した事がある。日本人(に見える)2〜3人の子供達が、すれ違いざまに「ダダダダッ!」と戦闘機の機銃掃射のような口真似をしながら、外国人(に見える)の子供に次々に足を繰り出し、走り去っていった。ホンの5秒くらいの出来事だった。
 こんな事があるから、子供達に不要な外出を避けさせていたのかも知れない。太平洋戦争直後ではないにしても、広大な米軍占領地が残っていた当時の事情と関係していたのだろうか。
 お菓子屋のオバさんが英語を話す事に驚きつつ、戦争に負けるとお菓子屋のオバさんも英会話が出来なくては商売にならないのかと思った。残念ながらお菓子の支払いがドルか円かまでは確認しなかった。

飛行場の近くに住むという事
 関東村や調布飛行場の南側、ほぼ滑走路の延長線上の離陸コースの真下に調布中学校がある。1980年8月、調布飛行場から離陸した航空写真撮影用の双発機が、その調布中学校の校庭に墜落する事故があった。当該機は離陸直後にエンジントラブルにより失速し墜落した。二名の乗員は亡くなったが、見事に何もない校庭に落ちたため、中学校や周辺の住宅に特に被害は無かったと記憶している。意図して校庭へ落ちたのかは、乗員が亡くなってしまい分からないままだ。
 また調布中学校への双発機墜落から遡ること四年、1976年3月に調布飛行場を飛び立ったセスナ機が「ロッキード事件」の影の中心人物とされる児玉誉志夫氏の邸宅へ故意に突入するという事件があった。突入したセスナ機は破壊・炎上し乗員は死亡したが、一方の児玉邸はニュース映像を見る限り、外壁が焦げた程度で躯体が破壊されるような大きな損傷は受けていないように見えた。大物フィクサーと言われた児玉氏の邸宅は、万一の場合に備えて特別頑丈に施工されていたのだろうか。
 セスナ機で突入したのは俳優の方で、突入飛行前に特攻服を着用し写真撮影を行っていた。俳優だったためか「神風特別攻撃隊を実演」と報道されていた。
 かつて調布飛行場には太平洋戦争中の244部隊のように、首都防空のために米機B29に肉薄攻撃を行い、後に神風特別攻撃支援のために九州へと移動した飛行士達が実在した。その事を考えると児玉邸突入と神風特別攻撃隊を同列のように報道し論じて良いものなのか。突入した俳優の方は調布飛行場が244部隊の基地だった事を知っていたのだろうか。
 さらに2015年7月には離陸直後の飛行機が失速し、住宅街に墜落・炎上するという大事故が起きた。乗員・搭乗者と住民の計三名が亡くなり、計五名が負傷するという大惨事になった。墜落場所は調布中学校の南西側に位置する閑静な住宅街だった。
 この事故の一報を聞いた僕は、すぐに実家に電話をし両親の安否を確認した。普段は全く意識しないが、飛行場の近くに住んでいるというリスクを改めて認識した出来事だった。
 僕は事故後数ヶ月して、不謹慎にも野次馬根性で現地を訪れてみた。その頃は住宅街の入り口に、取材自粛を依頼する張り紙が何ヶ所も掲示してあった。事故直後からマスコミの取材は加熱し、大変な騒動になっていたと記憶している。既に墜落現場の被害住宅は取り壊され更地になっていた。その時に現場を写真撮影したのだが、何やらとても後ろめたい気持ちになり、その画像はすぐに削除した。
(つづく)



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