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調布飛行場連中 その3

信号の付いた直線道路
 僕が以前にも増して毎日のように調布飛行場に行くようになったのは、加藤君と知り合ったからだ。僕がヤマハTX650Ⅲに乗っていた十九〜二十歳くらいの頃、1977年か1978年だったと思う。
 調布飛行場の正面のゲートは既に開放されていて、クルマでもバイクでも自由に出入りが出来た。調布飛行場には滑走路と並ぶように長い直線道路があった。大体400メートルくらいだったと思う。当時その直線道路は滑走路の三分の二あたりで右に急角度に曲がり、その先は封鎖され行き止まりになっていた。どこにも抜けられない、一般道としては機能していない道路だった。だから調布飛行場には飛行場関係者か、飛行機が飛ぶのを見に来る人くらいしかいない、閑散とした静かな場所だった。
 今ではその曲がったところが三叉路の交差点になって、信号機まで付いている。直線道路はそのまま延伸され緩やかにカーブしながら、人見街道の野川公園入口の辺りに接続する立派な一般道になった。従来からの道路は、新撰組組長、近藤勇の墓のある龍源寺の方向に抜けられるようになっていた。しかし幅が狭く住宅街を抜けているため、脇道的な位置付けになっている。
 僕は中学生の頃からよく遊んでいた事もあり、バイクに乗るようになってからもツーリングの帰りやバイクの掃除をする時などに調布飛行場に行っていた。滑走路と直線路の間には広々した草地があり、その広さに反比例してほとんど人がいない事が僕の好みにピッタリだった。滑走路に沿って腰高くらいの金網の柵があり、滑走路とそれ以外のエリアは一応区切られていた。

声をかけて来た加藤君
 ある時、加藤君が話しかけて来た事がきっかけで、調布飛行場に来る連中と知り合った。やがて加藤君の友人の小宮山君や坂本君、小川君、加藤君の実家の隣に住んでいた伊藤君、少し年長の今関さんや関さん、他にも加藤さんや片桐さん達、沢山のバイク好きの連中と知り合う事が出来た。
 加藤君は調布飛行場にやって来るバイク乗りにやたらと話しかけていて、今関さんや関さんと知り合ったのも加藤君の声掛けの賜物だった。僕も皆もまだ学生だったり、今でいうフリーターだったりした頃だ。関さん以外は彼女もいなくて、おまけにお金も無かった。でも人生で一番印象に残る、楽しい時代だったと思う。
 知り合った時の加藤君はホンダCD50に乗った受験生だった。他にヤマハRD250も持っていた。当時の原付はヘルメットの着用が義務付けられていなかった。だから加藤君はいつもノーヘルで、黒いCD50に乗ってやって来た。知り合ったのは夏場だったので、彼はいつも黒い「JUN」のTシャツを着ていた。加藤君と知り合ったばかりの頃、今関さんは彼の名前が思い出せず「JUNのTシャツを着たCD50のヤツ」と呼んでいた。

加藤君 vs ポップヨシムラ
 加藤君が大学生になってからの出来事だったと思う。今関さんの乗るホンダCB125JXをボアアップしようという事になった。そこで加藤君と今関さんが当時、神奈川にあった「ヨシムラジャパン」までパーツを買いに行った。
 「ヨシムラジャパン」と言えば、4サイクルエンジンのチューニングで有名な吉村秀雄氏、通称「ポップヨシムラ」のショップである。「集合マフラーのヨシムラ」と言えば、聞いた事がある人もいるだろう。
 二人がそのショップ行くと(何と!)「ポップヨシムラ」が直接応対してくれたそうだ。話をするうちに「ポップヨシムラ」は2サイクルに対する4サイクルの優位性や、メカニズムとしての熟成度などを語り出した。
 それを聞いた2サイクルバイクのオーナーでもある、我らが加藤君は臆する事なく質問した(単に疑問に思ったことを口にしただけかも知れないが)。「それでは、4サイクルがそんなに優れているのなら、なぜWGP(二輪ロードレース世界選手権:現在のmotoGPに相当)で、4サイクルは2サイクルに勝てないのですか?」加藤君は4サイクルの神様とまで言われた人に、決してしてはならない質問をした。少なくとも僕には絶対出来ない。「ポップヨシムラ」を生で見て、直接話が出来るだけでも有り難いのに、何とも畏れ多い。
 思いがけない加藤君の質問に「ポップヨシムラ」は、しばし言葉を失ったらしい。その後、甚だしく険悪な雰囲気になったであろう事は想像に難くない。よくパーツを売ってくれたものだ。そのまま追い返されても不思議ではない。
 僕は加藤君のあまりに大胆な質問に、肝心の「ポップヨシムラ」がどう返答したのかを忘れてしまった。いや耳に入らなかったのかも知れない。この件を最近になって改めて加藤君に確認したが、彼も「ポップヨシムラ」の返答は覚えていなかった。
 そこで、さらに小宮山君にも聞いてみた。さすがは小宮山君だ、彼は覚えていた。「ポップヨシムラ」は『2サイクルはただのポンプだ』と加藤君の質問に直接答えることは無く、議論を打ち切ったようだった。
 加藤君は穏やかで人当たりの良い性格だが、こだわるべき事については、相手が誰であろうが徹底的にこだわる、という出来事だった。

GPマシン ホンダNR500
 しかし当時は、燃料制限でも無ければ、耐久レース以外で4サイクルが2サイクルに勝つ事が難しかったのも事実だ。
 ホンダは打倒2サイクルを目指し、NR500という楕円ピストンの革新的な4サイクルバイクを片山敬済選手に託し、WGPに参戦した。しかし目立った成績を残すことは出来ず、片山選手のGPライダーとしてのピークを消耗させただけだったように思う。
 そのNR500だが、ホンダのお膝元である鈴鹿サーキットで開催された、1981年の鈴鹿200kmレースで「燃料無給油」作戦が功を奏し、木山賢悟選手が優勝したと記憶している。NR500のレースでの勝利は、この一回だけではないだろうか。
(つづく)

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