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五胡十六国のやべーやつ 有名人編3

 こんにちは。
五胡十六国入門」です。
 次回からなにをやろうか迷っています。いや大人しくデイリー同人誌進捗報告でいいのかしら? とりあえずこれまでのような規模感で毎日更新は無理なので、もっと手を抜かねばなのです。

Cクラス 有名人

 今回の五名で、ひとまず人物紹介編は終了。「五胡十六国でひとまず把握できるといいよね」的、合計二十五名。正直いったんCは忘れていいと思ってます。けど語るの。

C―11 釈道安

 五胡十六国における影響度では、先に登場した仏図澄よりも、実は上です。仏図澄が先駆者で、釈道安が伝播者、という感じでしょうかね。仏図澄の弟子として仏門を修め、その弟子には東晋末の仏教界を確立したと言っていい釈慧遠がおり、また苻堅に鳩摩羅什の存在を教え、招聘の道を開いたのもこのひと。最大のハブ的存在、ということができるでしょう。
 仏図澄死後、冉閔とかいうオモシロ虐殺マシーンが華北を席巻、更に鮮卑が大挙して南下。そんな末法の世にいることを諦めた釈道安は南下して東晋入り。そこで地道に活動をします。しかし場所が悪かった。彼が身を投じたのは、襄陽。いちばん有名なところでは関羽が曹操軍と戦った城で、南北の大勢力がにらみ合う場合、だいたいこの城が境界となります。しばらくの間は平穏でしたが、やがて迫りくるは前秦、苻堅の軍。数年間の籠城虚しく襄陽は陥落、釈堂安も苻堅のもとに連れ去られます。とは言え長安、西方と繋がる道=シルクロードの終着地点です。すなわち、当時の中国で最も仏教経典と接することのできる都と言っていいでしょう。以降の釈道安は苻堅のもとで研鑽を積むことに。そして苻堅に鳩摩羅什を紹介したり、東晋討伐とか馬鹿ですかと諌めたけど聞き入れられなかったりしました。そして混乱極まる長安で死亡。約二十年後、後秦の王、姚興の指揮のもとで仏教の都と化した長安を釈道安が見たら、どのような感想を抱いたでしょうか。

C―12 慧遠

 釈道安の弟子。東晋は廬山に拠点を築き、修行や布教に務めました。東晋後期から末期の貴族たちはほとんどが仏教に消えしています。その中でも特に有名なのが、東晋を滅ぼし、劉宋を立てた劉裕。そして劉裕を支持する貴族の多くが仏教徒でした。このあたりは史書にまったく残されていませんが、劉裕の立身には仏教徒であるという変数がおおきくかかわっているのではないか、とにらんでいます。
 仏図澄や釈道安もそうでしたが、この時代の僧侶は、為政者とはある意味で台頭な立場を貫きました。というのも、いわゆるブッダの存在を中華世界で言う最高神、天帝の横に横に置いたのです。だから為政者としては本来相容れないものだったのですが、慧遠の尽力もあり、相容れないはずの東晋朝廷で仏教が大流行。もちろんこうした動きを嫌がる貴族もいました。のちに東晋を簒奪する、桓玄です。仏教徒たちを認めない訳にはいかない、しかしもっとも尊いのは天帝であり、その代弁者たる皇帝である。ならば仏教徒も、皇帝を天下の父として尊崇せよ。そう命じたのです。しかし慧遠、これを真っ向から拒絶。慧遠がすごかったとも言えますし、皇帝という存在がずいぶん安くなっていたのも感じます。
 インドからやって来た仏教と、現在我々が「寺のお坊さん」を窓口として見る仏教はだいぶ姿が違います。その根っこのところにいるのが、慧遠が組んだ仏教集団であるといえるでしょう。

C―13 劉裕

 東晋五胡十六国という枠組みを終わらせた、南の雄。貴族未満の立場からのし上がり皇帝にまでなった男。ところで自分は日本でいちばん劉裕に偏執している自信があるんですが、ぶっちゃけ東晋貴族のポチだよねと思っています。
 間違いなく、当代最強の将軍とは思うんですがね。なにせその戦績を見ると、「勝つべき戦に必ず勝つ」を実践しています。そのため覇道がほぼ最短ルート。貴族というわけでもないのに、勝つための資源を揃え、勝つための兵を動員し、そして勝つ。それを成し遂げるのには、確かな権力が必要です。そう考えると、それだけスターダムにのし上がるに至った簒奪者桓玄の打倒がインパクトの大きな功績だったのでしょう。
 ちなみに劉と言う姓ですから、のし上がりにあたっては漢の楚元王の子孫を名乗っています。劉邦の弟、劉交のことです。劉裕も即位にあたって、正式に劉交の子孫であることを認めています(事実は不明ですが)。漢という国の威名がどれだけ医大だったかを感じさせられますね。

C―14 赫連勃勃

 五胡十六国時代は「モヒカンがヒャッハーする時代」と語られることが多く、この時代にズブズブにハマった人間としては否定したかったりもするのですが、こいつのせいで無理。それぞれの職人に武器と防具を作られて負けた方を殺すとか、城壁を頑丈に築けなかった職人を城壁に塗り込むとか、城を築けば天下万民が自らにかしづくのだとド辺境から宣言したり、後継者を選ぶにあたって候補に殺し合わせたり、あげくの果てには僧侶を殺しまくった結果落雷食らって死亡。えっ厨二……
 とは言え、五胡十六国周りを調べると、割とプロパガンダを暴ききれていないようなのです。というのも諸国家の歴史をまとめた初めての本、十六国春秋は北魏で書かれました。この北魏、赫連勃勃の曽祖父の代からバチバチにぶつかりまくっています。不倶戴天の敵、とすら言っていいでしょう。そういう立場の相手を、では北魏がどう書くのか? みたいなところから、その記述を覗き見たいところではあります。ましてや、元々同じ遊牧民族として戦ってきたのに、片方は漢文化に憧れて歴史書なんて書き始めてます。赫連勃勃のところで蛮行として書かれてる所業、案外北魏の先祖もやってたんじゃねえの? と思えてなりません。
 とはいえ、赫連勃勃の娘が何故か北魏太武帝の皇后になっていたりもするんですよね。遊牧民族たちは滅ぼした敵勢力の姫を皇后に迎え入れるケースが頻繁に発生します。漢人たちは良くて側妾なんですけどね。このあたりの文化の違いが興味深く、また赫連勃勃まわりの記述には、失われ行きつつある遊牧民族の風習が保存されているのではないかな、とも思うのです。

C―15 拓跋珪

 五胡十六国時代有名人のトリは、東晋五胡十六国という枠組みを終わらせた北の雄……の、祖父。なにぶん拓跋氏は代替わりのスピードが異常に速く、拓跋珪と、息子の拓跋嗣は十代で即位の三十代で死亡。というわけで孫の拓跋燾も即位は十代でした。なんでこんなスピードで王が死んでるのに成長を続けられているのかよくわかりません。凄かった、というしかないのでしょう。
 ただ、そのストレスも凄かったようです。赫連勃勃のところでもちらりと書いていますが、敵が姻戚になったり姻戚が敵になったりするのもごくごく当たり前。拓跋珪自身祖母の一族(慕容氏)、母の一族(賀氏)、妻の一族(劉氏)とそれぞれ戦い、その勢力をすり潰しています。そうした親戚殺しに対する苦悩のためか、やがて寒食散、要はまやくに溺れ始めて乱心、このままでは殺されると危ぶんだ息子によって殺されました
 親子の間でも平然と殺し合うのが当たり前なのもすごいですし、それ以上に親子の殺し合いなどという異常事態を経ても北魏の支配力がさほど揺らいでいるように見えないのも恐ろしいです。そういった異常な強さこそが、拓跋氏を華北の覇者に導いたのかもしれません。


 以上、五胡十六国を知るに当たって特に便利であろう2+3+5+15、合計25名の紹介でした。他にも重要な人物、面白い人物はおり、ともすればここで紹介した人物たちよりもインパクトを覚えることも多くなるでしょう。
 こちらも「この25人が最重要」と言う気はありません。あくまでこの時代で遊ぶにあたっての取っ掛かりとしやすそうな人物、として接していただければ、と思います。

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