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五胡十六国のやべーやつ 有名人編2

 こんにちは。
五胡十六国入門」です。
 はじめての KDP に挑戦するに当たり早くもめげそうになってることを晒す羞恥プレイが快感になっています。うそです。

Cクラス 有名人

 引き続き、この時代に馴染みのない方にはたぶん知られていないだろうけれど、時代の骨組みを見れば重要なんだよ、という人物についてです。

C―6 冉閔

 某国で現在英雄としてもてはやされつつありますが、いいの? この人もてはやすってことは「自分の意に沿わないやつは殺す」って意味になるけど? ……とまぁ、いきなり物騒な余談をはさみつつ。
 後趙は石虎の養孫として、そのずば抜けた武力で活躍した人物です。ただしどうやら小さな頃に羯族からひどい目にあっていたようで、憎しみを押し殺して父とともに石虎に帰順、石虎が死亡すると瞬く間にその息子たちを一掃、皇帝の座に就きました。そして始めるのです、羯族への復讐を。皇帝からの命令として羯族も、そっくりな漢人も無差別に殺され、更に羯族を殺すためには外患誘致さえ厭わない、とまで言い始めます。確かに永嘉の乱以降、やってきた外来種に生活を破壊された人間も多かったでしょう。羯を殺す、と息巻く冉閔にも、ある程度の同調はあったのだろうと思います。憎しみを晴らすことができるなら、どんな手段でもいい、という考えが生まれてもおかしくないと思いますしね。ただ、やりすぎた。このため羯を含んだ胡族のみならず漢人からも見放されました。
 
丸裸となった冉閔は、その状態で北から攻め込む鮮卑慕容部に対峙せねばなりませんでした。どれだけ冉閔が強かろうと、相手は二十万もの騎兵隊です。あえなく敗北、殺されるのでした。
 いや冉閔英雄に仕立て上げるのは勝手だけど仲間も殺した末敗亡してる人物だってこともちゃんと伝えようね?

C―7 慕容恪

 上の冉閔とやり合った慕容部における代表的名将、それが慕容恪。ちなみにすでに登場した慕容垂の兄でもあります。兄弟揃ってトップに名前連ねるとか頭おかしすぎます。まぁそれだけ存在感が大きいので仕方がないのですが。
 父王こと慕容皝と漢人の后との間の子。これは慕容垂も同じ環境であり、「鮮卑最高、漢人はオマケ」史観に基づけば、弟ともども功績を挙げなければ前燕皇室内での立場を確保しきれません。臨終の床にて「慕容垂は自分の十倍の軍才がある」と語っていますが、このあたりは漢人后妃の子として産まれた疎外感や危機感に基づく発言だったのかもしれません。
 軍事については前燕を大いに牽引し、敵と戦う際には敵のみを狙い、むしろ周辺住民に対しては慰撫して回る。宮廷でもちょくちょく対立していた兄の慕容儁と弟の慕容垂の橋渡しをしたりで、やることなすことがとにかくイケメンです。兄からは、その臨終の床において「あとを継いでほしい」と言われるも突っぱね、甥を支える形で指揮を取ることに。急成長する前秦、永嘉の恨みを晴らさんとリベンジに燃える東晋をむこうに回し、新たな三国時代の現出を果たすのです……が、それも慕容恪の存在あってこそ。慕容恪が死ぬとすぐに東晋軍が攻め上ってき、それをなんとか撃退すると、今度はあっという間に前秦による併呑を喰らいました。この人がもう少し長生きしていれば……とはよく言われるのですが、まぁ三国鼎立がこの人の過労のゆえという感じなので、さすがにこれ以上の長生きは酷というものです。彼の弟二人(垂、徳)がそれぞれそののち三十年近く皇帝として現役だったことを思うと、どれだけ寿命削ったんだよこの人、と感じざるを得ませんのでね。

C―8 桓温

 東晋史上最大の名将、と言っていいでしょう。桓温以前の将軍たちは、約一名の例外、祖逖を除いて五胡勢力たちにほとんど戦功らしい線香を挙げられませんでした。その中にあって桓温は僅かな手勢で成漢を滅ぼし、建国間もない前秦を長安に追い込み、長らく胡族の手の中にあった洛陽を奪還しました。化け物としか言いようのない戦績であり、そうして東晋、前燕、前秦の三国鼎立を南方から成し遂げます。ただしこれだけの軍役を展開するためには東晋国内での権力を確保するための政争も繰り広げざるを得ず、「桓温は簒奪を狙っている」と早い段階から警戒されるように。されているにも関わらず大権を手に入れるわけで、戦争、政争、どちらにも非凡な才能があったと評するべきでしょう。
 その立身の経過を追うと、どこまでも東晋朝廷からの牽制、妨害に悩まされ続けています。そうした経緯を追うと苛つきのあまり大権を狙うのも仕方がないとすら思えてしまうのです。もっとも、そうやって邪魔された末に北伐の好機はことごとく見逃さざるを得ず、ようやく立ち上げた最後の北伐では、慕容垂による反攻を喰らい、大敗。外征のための力を完全に失います。
 こののち「やけになって」「耄碌して」簒奪を本格的に狙い始めましたが、それも謝安らの寝技により頓挫。何処までも東晋貴族たちの寝技によって足を引っ張られ続けた生涯であったと言えます。

C―9 王猛

 前秦の覇王、苻堅にとっての諸葛亮。……と呼ばれますが、あんなお綺麗なもんじゃないです。ちょっと気に食わないやつがいたらすぐ処刑。あまりにもひどすぎるため一回免職、囚獄も食らっています。清廉潔白には程遠く、その方向性はもはや剛腕、と呼ぶしかありません。三國志の軍師と引き合いに出すなら、たぶん郭嘉とか法正と近いです。まぁ会ったら殺し合いになるでしょうけど。
 
五胡勢力の軍師ではありますが、漢人です。なのではじめの頃は東晋、しかも桓温からのオファーがありました。けど王猛、桓温と会ってみて、天下の主たらんとする覇気は感じなかったのでしょう(いやそんなん東晋に仕えてた人間に求めるなって感じですが)。鼻くそほじりながら面談、結局桓温を袖にしています。その後黼堅の評判を聞き、自ら登用してもらうべく出向くのですが、その性分から考えればより扱いやすくて、しかも功績がデカくなるほうを選んだ印象がめちゃくちゃでかいです。

C―10 謝安

 東晋が誇る最大の博徒。なんで勝てたのかよくわからない淝水の戦いを取り仕切り、自身も割となんで勝ったかよくわかっていないのではないかと思います。客人と囲碁をしていたところに淝水の勝報が届き、それをしれっと受け取って平然と対応しながらも、客人が去った後に狂喜乱舞するエピソードが残っていますが、なんというかハッタリのなんたるかをよくよく知悉した人間の振る舞いだなぁ、と痛感するのです。ちなみに若い頃には賭博で身ぐるみ剥がされたけどゆうゆうと徒歩で数十キロはある家に徒歩で戻ろうとしたり、度胸がヤバいのは間違いがありません。
 謝安を擁する陳郡謝氏は、その先祖が曹操の即位に絡んだりするような家柄でしたが、東晋時代はお世辞にもトップクラスの名家とは言えませんでした。しかし叔父の謝鯤、いとこの謝尚がじわじわ地位をあげていき、兄の謝奕とその息子の謝玄が桓温の幕僚として活躍。謝氏の麒麟児扱いであった謝餡は人々の期待を一身に背負ってはいましたが、それを嫌がったか、四十歳までニート生活をしていました。とは言え初任官が桓温の副官、それも弟のポカの尻拭いとしての採用で、いきなり職務を全うしていますので、ニート生活とは言いながらもバリバリに中央とも関わっていたことが伺われます。結局のところ政治なんてコネが全てですしね。
 このひとが不思議なのは、何故か苻堅と仲良しになっているところ。淝水が終わってから関中で窮地に立たされた苻堅、何故か東晋に援軍を求めています。しかも何故か謝安が応じて軍を率いています。ただし途中で謝安が病を得、撤収。あるいは苻堅に対する「対応はするだけしましたけどうまくいきませんでした、ごめんね☆」的理由付けのたかもしれませんが。
 ともあれ謝安が淝水に大勝する指揮をとったため、後の世に陳郡謝氏は、琅邪王氏とともに、王謝と並び称される大家となるに至るのでした。

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