ライカのこと〜ミステリというなかれを見たあとのクソデカ感情を吐き出したい〜

続けて超超ネタバレです!

出来れば、ドラマ原作ともに先に見てから読んでください!



彼女の事を実は真っ先に書きたかったんですが、なかなか文章にできずでして。

なぜなら彼女の病気(というのでしょうか)に対しての専門知識が本当になく。

考えれば考えるほど、一人の人間の中にある宇宙に放り出されたような気持ちになります。

というぐるぐる具合を文章にしてみようと思います。



僕らのまだ幼い頃。

24人のビリーミリガンという本が一世を風靡し、かつてその多重人格と呼ばれた症状、現在で言う解離性同一性障害が、ドラマやアニメ、漫画で描かれました。

おそらくはまだその解明の黎明期であった頃に。

一人の中に数人の人間がいる、という不思議さに、その症状はsf的フィクションのツールとして皆が手を伸ばしたのだと思います。

その中で今回の「ミステリ〜」のライカの描写はかなり医学的見地に立ったもののように感じました。

しかしながら、実際は、どういうことなんだろう?

少なくとも、作中においては。

「心」の物理的実在はわかりませんが、人の脳は、やはり一つです。

仮に脳が自衛のため交代人格を作成し、その間の記憶を主人格の思考、記憶からシャットダウンしたとして、

交代人格の記憶は、交代人格が引き継いでいる、という描写になっています。

つまり、ライカとしての記憶、発言、ライカ自身のパーソナリティは、音無千夜子の脳の中にある、ということです。

これは、ドラマ、原作ともにですが。

ストーリーの都合上、ドラマでは省かれたセリフの中に捉え方の鍵になるものを見つけました。

一つはライカの語る、

「消えるときには消えるものらしい、それまでよろしくな」というセリフ。

もう一つは症状を打ち明けられた整の、

「大事なのは、ライカさんがそう思っていること」という結論です。

この2つのセリフが、実はドラマ、原作ともの「解」なのかもなと思うのです。

炎の天使編までのライカは親殺しの罪を背負うために必要とされていた。

春までに、自分が新しい環境に映る前に、その問題に一定のケジメをつける必要があった。

その後、原作でのライカはもう一度「カメラ」としての役割を与えられた。信用できる人間とともに「楽しいこと」を見るカメラとして。

対して、ドラマにおけるライカは。

ライカとしての「楽しさ」が勝ってしまい始めた事を感じ、それを「楽しかった記憶」ごと消えてしまうことを選んだ。

交代人格を多重人格的1個人として捉えていることが正しいのか間違いなのか。

という点を、一度おいて。

ドラマの脚本の中で音無千夜子の中で起こったことをかんがえると。

その楽しい記憶を通じて、音無千夜子が、「自分自身を生きたい」と望んだということなんじゃないかと。

いずれまたその「楽しいこと」を千夜子として体験するために。

ライカの「最期」を見届けた視聴者は整くん同様に喪失感に苛まれたかと思うし、ライカの蓄積した記憶は戻るのかどうなのかもわかりません。

ただ、その記憶は、彼女の脳の中に、未だあるはずです。

もしかしたら、彼女が自分の傷と向き合い始めたとき、整くんと、焼き肉と、全力で走った道が、

彼女の中に思い起こされるのかもしれません。その時、千夜子として、整くんと向き合う日が来るのかもしれない。

そんな淡い希望が、未だ胸に渦巻いているのです。

最後に、ライカ、千夜子を見事に演じきった門脇麦さんという俳優に、心からの拍手を送ります。

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