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4年後、オリンピックが来た。

こちらの記事というかお話しを、羽生さんをお好きな方がよく読んでくださるもので、あれから4年経ちましてその時の娘はこうなりましたということをかの地にある方に届けるようなつもりもないのですが、書簡のような形で書きました。
https://note.com/6016/n/n014b14a5a841

わたしには4年という年月がこれほど瞬時に過ぎ去っていくものかと慄いた4年もありませんが、あなたには一体この4年間はどういう4年間だったでしょう。

4年前の2月、今日の北京と同じようにして、あの時は韓国の平昌で華やかに冬季五輪が開催されていました。

平昌という街の名前をわたしはこの時に初めて知りましたが、韓国のスキー・リゾートなのだそうですね。現地にいらしたあなたと違って、わたしはテレビのニュースでしか見る事はありませんでしたが、北緯37度、日本の北陸地方程の位置にあるその街は当時、韓国初の冬季五輪の活気とひかりに満ち満ちているように見えました。

その頃のわたしの家と言えば、当時小学3年生だったいちばん上の息子がインフルエンザA型になって、次に当時幼稚園の年長児だった娘、それから2人を看ていた私が、まるでドミノ倒しのようにしてインフルエンザにかかってしまっていて、すぐに病院でお薬を頂いたので熱こそ数日で下がったものの、そのせいで10日程一番末の娘、この当時は生後2ヶ月であった娘に会いに行くことができなくなっていました。

その前の年の12月に生まれた末の娘は重度に分類される心臓病で、新生児集中治療室・NICUのある大学病院で出産、わたしが産後5日で退院した病院に留め置かれたまま、NICUの透明な箱の中で看護師達の手でそれは慎重に育てられていました。

この子の退院は一体いつになるのか、退院のための手術はいつ頃どんな形で行われるのか、それはわたしにも、そして娘を診て下さっている先生方にもまだ予測もついていないものでした。1月の末には肺炎にかかり、ひところは命が危ないと言われて、その後は後遺症ではないですが、治療と体力的な問題で口からミルクを飲むことができなくなり、鼻から細い管を入れてそこから栄養を入れ、その他にいくつかの点滴、それだけが娘の命を支えている、そんな状態でした。

そんな子ですから当然インフルエンザにかかった親は熱がひいた後も感染予防のためにしばらくの間はNICUに入室を許されず、だからと言って日によっては現場の指揮官である師長みずから新生児を抱いて申し送りをする日もあるような繁忙極まる戦場にこちらから電話をして「娘は元気ですか」などと聞く事もできず

「インフルエンザにかかりまして面会はどうしたらいいでしょう」

という連絡をいれた私が看護師から伝えられたのは

「何ごとかがあればお電話します」

というひとことでした。

『何ごとか』

それはすなわち『急変の知らせ』であって、わたしはその恐怖の着信に怯えながらただNICU出入り禁止期間の明けるのを自宅で待っていたのでした。

立春を過ぎたところで、2月の凍える曇天の日々が突然明るく温かな春になる訳もなく、わたし達の生活は娘の生まれた12月からどんよりと暗く、そして宙ぶらりんで、テレビで華やかな平昌オリンピックの開会式の様子を見ても、カメラクルーに向って笑顔で手を振る選手団を見ても

「へっ」

とか

「けっ」

とかいう思春期の中学生が世界の全てに唾棄して背を向けるような、そんな気持ちを隠せずにいたものでした。

あの時開会式を放映していたNHKのオリンピックテーマソングを歌っていたのはsekai no owariで、春を待つ2月の穏やかな世界に我が家だけが世界の終わり、まさにそんな感じでした、世間の華やかさと賑わいの欠片も無いわたしの生活。娘の手術の日取りが決まらなければ、退院の目星もつかない。今後はもう長期戦の構えで、小児病棟に移って2,3ヶ月付き添い入院をしつつ手術のタイミングを待つほかないと言われていました。当時主治医であった新生児科の大柄で優しい面差しの先生が言うのには

「赤ちゃんは本来であれば自宅で家族と過ごすものです。でもこの子はたまたま病気で生まれて来たので今すぐそれは叶いません。それならお母さんかお父さんが一緒に病棟にいてあげて出来るだけ家庭に近い形で過ごさせてあげることがこの子のためなんじゃないかと僕は思うんです」

実際、先生の言う通りなのです。赤ちゃんは母乳かミルク、そして愛情を、とにかくたくさんの愛情を糧にして育つ生き物なのですから。

でも反面、小児病棟の付き添い入院とは親にとってたいへんに過酷なもので、そこはほぼ難民キャンプというか戦場というか、居住性皆無の病室に食糧難、そして清潔な衣類の著しい不足、そういうものであるし、加えてわたしにはこの生後2か月の娘の上に2人子どもがありました。当時まだそれぞれに小3と年長だった息子と娘はまだお風呂に入った時に1人で頭も洗えない、夜にトイレにひとりでは行けない甘えん坊で、わたしはこの末の娘の付き添い入院をすることで

『2人を捨てるようなことになるのでは』

そう思って本気で悩み、小児病棟への転棟はもう少しだけ待って貰えまいかと看護師にずっと頼んでいました。そういうことに懊悩しながら迎えた2018年の2月中旬、あれはたしか2月17日だったでしょうか。

わたし達NICUに毎日詰めている親は、午後の2時位に全員が1度お部屋を退出してどこかの病棟のデイルーム、そこに入院している患者やその家族が面会をしたりお話をしたりする部屋にまぎれこむようにして食事をしていたのですけれど、7階にあるそこで男子フィギュアスケート決勝のフリーの演技を見たのです。

大学病院というのは、分かりやすい普通の病気の方の少ない場所です。分かりやすい病気というのが一体何かと聞かれるとわたしもそれはよくわからないのですけれど、とにかく重篤な状態であったり、経過や先行きの良くない方が多く、大きな川に面した日当たりと見晴らしの良いそのデイルームは、いつもはあまり心楽しい雰囲気の場所ではありませんでした。

点々とその空間に置かれている丸テーブルとイス、そこに座る人達の会話の中には、今後の生活が不安だと言う声がよく聞かれましたし、病衣で点滴だとか尿を採取するための袋などを提げて歩く人々は、基本的に顔色が悪く表情も冴えないもので、午後の穏やかな時間に心楽しそうに微笑むような人は少なかったように思います。

そしてわたしも、この先わたしの娘はどうなるのか、この子の治療をしながらあと2人の子を育てて、それであの子達に幸せな子ども時代を与えてやることはできるのか、それで自分は自分を保つ事ができるのか、そういう答えのない問いをぐるぐると頭の中に回し続けていました。

ただあの日、あなたがデイルームの大きなテレビに映し出された瞬間だけは様子が違いました。

そこにいた年齢も性別も、病態も何なら余命もそれぞれに皆違う人達がその時だけは、自分の行く末ではない、術後の経過ではない、家族の手術日ではない、あなたが滑り、跳んで、回り、そして無事に転倒することなく着氷する瞬間を、両手を握りしめてただ祈っていました。

全員が、です。あの時は立ち見の人もありましたから患者と患者家族それに付き添いの看護師や看護助手、30人程の人がいたでしょうか。

あの時の、22番目の滑走者であったあなたの演技終了時の大きな喝采と拍手。

病衣で車椅子の人のスタンディングオベーションを、流石のあなたも見た事はないと思います。私はあの日何人もそういう人を見ましたし、私がたまたま相席して一緒に決勝を観たおとうさんも立ち上がって大きな拍手をしていました、私も一緒に立ち上がって拍手をしました。

フィギュアスケートはオリンピック競技ですから、当然それはスポーツなのですけれど、同時に舞台の上で行われるひとつの舞踏芸術、アートであると、スケーターはダンサーでもあると、私のこの認識は正しいでしょうか。

ダンサーという職業は、とくにそのひとがソリストである場合、それは大変に孤独なものであると聞きます。舞台に立てばそのひとは目のくらむ程の強いライトの下にたった1人です。1人で立って、踊り、そこで転んでも躓いても助けてくれる人はありません、仮にしくじったとして、その場を走って逃げ去ることは万死に値する恥であるとひとから聞いたことがあります。

それが世界中の人の目の注がれる舞台であるとしたらその重圧というのは一体いかほどのものなのしょう、仮にそこにあるのが自分なら3秒程で簡単につぶされてしまうのではないかと思います。普段碌に運動もしない主婦とオリンピックアスリートを比べるというのものなかなかおこがましい話ではあるのですけれど。

あの時、世界中の視線と期待とそれが合わさって出来上がった途轍もない重圧の中にすべてのプログラムを滑り終えたあなたは、まさか全く見も知らない大阪の病院の、7階フロアの一角に集まった患者とその家族について知る由もなかったとは思いますが、でもわたし達はあの日、何かとても善いものをあなたから受け取りました。

私はあの時に、もうやるしかないじゃないかと、娘を生んだ日以来の強い決意をしました。付き添い入院でも何でもやってあの子を退院させて家に連れて帰ってやらなければ。

そして、この時にはまだ『先が全く分からない』と言われていた娘は、この日から1ヶ月半ほど経った2018年の3月の末に最初の手術を、そして2019年の5月に2度目の手術を、それから2021年の2月に3度目の手術を、それはこの子が生まれる前に

「3回をクリアして初めて、将来の事をお話しできると思います」

と言われていた最後の手術なのですけれど、それを終えました。酷く難渋したその手術と術後は全く無事で問題の無いものであったとは言えませんでしたが、とにかく生還して今、ここに生きています。

この4年間の入院回数は、この手の疾患の子にはまだ少ない方ですが10回を越え、その間に娘は4歳になりました。心臓の疾患には完治という概念があまりないもので今も健康とは言えない状態ですが、でもとても元気で、在宅酸素や服薬や運動制限など、生きていくのに色々と大変なことは多いのですがそれでも不幸な事はない、幸せに生きているし、この先も幸せに生きられる子であると思って日々を暮らしています。

あの時、相席をしたおとうさんとは、その年の夏に偶然お会いして、無事に退院し今まで通りに元気とは言えないけれど「ぼちぼちやっとる」という報告を受けました。

2018年の2月のあの日、7階のデイルームに偶然居合わせた人達はそれぞれに、例えば私と娘のように退院して自宅で平凡な日常を静かに暮らす事を許された人もあるでしょうし、もしかしたらまた同じように入院している人もあるかもしれません、中には残念ながらもうすでに天国に住所を移された方もあるでしょう。

その人々がそれぞれの人生を越えてきた4年後、また同じ2月のオリンピックに当時と同じようにひとりの滑走者としてあるあなたに私はまず万感の想いで拍手を送りたいと思います。

4歳になった娘は、病弱の筈なのにひとつも大人しさが無く、意思堅強で、6歳年上の姉が遊んでくれないと姉の長い髪を引っ張って泣かせるような気の強い娘に仕上がってしまいまして、あの頃はあんなに妹の帰りを切望していた息子と娘には「もう一度病院に戻して来てよ」と何度言われたかわかりません。その彼女もまた、フィギュアスケートをテレビで見ると嬉しそうに画面に向かいます。ただこの娘の好きなものは、どちらかというと女子選手の身に纏うお姫様のような衣装なのですけれど。

あなたの滑走するその日その時間は娘と、あなたが跳んで、着氷する瞬間の無事を祈ります。

あの日から4年を経て、届くことはありませんし、届くことを願っている訳でもないのですが、娘の無事をこの手紙のような文章に認められたことをあなたにも感謝したいと思います。


本当に、ありがとう。

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