ウチの娘がイグアナだった時の話
我が家の第3子・娘②が、先天性心臓疾患の為に生まれたその瞬間から入院して手術をして4ヶ月半。その入院先の大学病院からの退院を言い渡された時、病棟はちょっとした騒ぎになった。
それは、主治医のグッドルッキング小児循環器医スティング先生(仮名:イギリスの往年のロックシンガー・スティングに似てるから)が
「お母さん、今月20日退院ね」
と言ったその日が、その月の19日だったからだ。
つまり、私は退院1日前に娘②の退院日を知らされた事になる。
そしてそれは、病棟ナースを始め娘②に関わる全てのスタッフも同様で
それを告げられたその時、ちょうど私は娘②を担当する病院付きの医療コーディネーターで水川あさみ似の一児の母・Kさんと今後について病棟の廊下で立ち話をしていた。
その時のKさんの驚愕の表情は今も忘れられない。
そしてその3秒後の先生への強硬な矢継ぎ早の質問も。
「ええええ?明日?明日って本気ですか?退院のカンファレンスは?」
「娘②ちゃんの訪問看護の受け入れ先は?」
「あと、娘②ちゃんには訪問リハビリも必要ですよ?依頼しますか?」
怒涛の勢いで退院のカンファレンス(※ここでは医師、看護師、訪問看護師等を交えて行う退院後の生活や看護について伝達する会議)の時間を翌日の朝一番で確約させ
「じゃあ、次!担当ナースは誰でしたっけ!?Sさんだ!」
私を私が抱いていた娘②ごと引っ張ってナースステーションに連れて行くと、PCに向かって看護サマリーを作成していた担当ナースのSさんを見つけて
「娘②ちゃん、退院明日だってY先生が!退院物品とあとカンファレンスは明日の朝イチです。書類揃えられます?えーとえーとあと何だ?そうだ、訪問看護決定して連絡します!」
早口で伝えると
じゃ!あとを頼みます。
そう言い残し、Kさんは風の如く走り去ってしまった。残された私と娘②と看護師のSさんは呆然と
する間も無く
「えー!娘②ちゃん明日退院なの?確定?何がいる?そうか!退院物品だ!」
SさんはPC前から立ち上がって詰所の横の倉庫に飛び込み
シリンジ5ml
シリンジ10ml
マーゲンチューブ5Fr40cm
ソフポアテープ
イリゲーター200ml....
あと、あと何がいるんだっけー!と頭を掻きむしりながら、上記医療用の物品を詰め込んだ巨大なビニール袋を担いで私の前に現れたSさんの
その出で立ち、ほぼサンタ。
Sさんは元々小柄でアイドル並みに華奢な体型なのでそれはとんでもない量に見えたが
本当にとんでもない量だった。
これを退院当日持って帰り、今後は小児科外来から毎月支給される『物品』で娘②ちゃんの経管栄養のケアをママがやっていくんだよ。と
...この大袋が毎月来るのかウチに。
そう、この時娘②は鼻から胃にチューブを通してミルクないしは搾乳した母乳を摂取する経管栄養児で
それは心臓疾患の治療途中に起きた二次障害のようなもので、体への負担や肺炎の感染を回避する為に出生時から間もなく経管栄養にしていたものが、そのまま吸啜反応や嚥下と言った、人間の本能や機能を乳児に忘れさせてしまう
哺乳類としてはどうなのそれは
という突っ込み待ちの状態になってしまっていた。
私は娘②がこの状態になるまで、この言葉を全く知らなかったが
こう言った経管栄養や、在宅酸素、胃ろう、気管カニューレなどの生活、生存の為の外付けハードを付けて暮らす子供たちを総じて『医療的ケア児』と呼ぶ。
娘②はその医療的ケア児になっていた。
勿論、入院中も特に手術後は院内のリハビリ科からST(言語聴覚士)さんが病棟に来てくれてリハビリも行なってくれてはいたが、肝心の娘②は
「ミルクの味を覚えさせよう」
と言語聴覚士さんから差し出されたリハビリ用・白十字の巨大綿棒を虚しく口に咥えるだけで、全く吸うことも飲む事も出来ず、タイムリミットの退院の日が来てしまった。
それも突然。
確かに娘②が生まれてからこの方、退院して我が家に連れて帰る日を、私も夫も娘②の兄と姉である息子も娘①も、それはそれは待ち詫びていたが
心臓疾患児なのはまだしも、医療的ケア児を突然『ハイよろしく』と言って渡されるとは全く思っていなかったので
これ、家で育てるんですか?私が1人で?マジで?
退院の喜びは忘却の彼方、ただ不安だけが脳内を駆け巡っていた。
それに娘②は、手術後しばらくは安静のために座薬を使って少しぼんやりしている時期があったが
「もうワコビタール(座薬)ええわ、娘②ちゃん強いし、もう普通の状態で」
とスティング先生から座薬停止のお達しと、娘②頑健宣言があってから程なく、何故かミルクを大量に吐くようになっていた。
何故かはわからないけれど。
私は本気で不吉な予感しかしなかった。
これはエラい事になる。
そして、悲しい事に私の不吉な予感というのは大体当たる。
◆
何しろ退院日の決定が突然だったので、病室の床頭台の中の荷物は、朝から詰め込めるだけIKEAのあの巨大なショッピングバッグに詰め込んだ。
入院も長期になると、病院置きの荷物の量はとんでも無いことになる。
入退院にあの巨大なビニールバッグはとても便利だ。
お値段以上、IKEA。
そんな現実逃避に一瞬頭を持っていかれそうになっていると、担当ナースのSさんが
「娘②ちゃんママー!退院カンファ行けます?」
と、お迎えにやって来た。
Sさんは、昨日突然娘②の退院を言い渡されたが為に、今日の為の退院サマリー(退院に際しての看護記録)を残業して仕上げる羽目になり
「くそ...Y先生許さねぇ...」
そう呻くように呟きながらPCのエンターキーをバンバン叩くという大変趣深い姿をお見かけしていた。
そして連勤で日勤ですか、更にその退院カンファレンスにも出るんですねと思うと、なんだか申し訳ない気持ちになる。
いや、私全然悪く無いんやけど。
娘②ちゃんも連れて行ける?と聞かれたので、点滴も酸素も取れて、すっかり身軽になった娘②を抱き上げた。
あとはこの鼻に深くというか胃まで突っ込まれた経管栄養用のマーゲンチューブが抜けていればねとは思うが、それはもう致し方無い。
◆
面談室には
主治医 スティング先生
医療コーディネーター Kさん
訪問看護師 サカタさん(仮名)
訪問リハビリ 言語聴覚士 カトーさん(仮名)
が既に着席して私達を待っていた。
Kさんは昨日あの後、即、市内の小児専門の訪問看護ステーションに連絡を入れ、昨日の今日で
訪問看護師
訪問リハビリ
その看護師さんとリハビリ担当の言語聴覚士さんの今日のカンファレンスへの出席
を決めてくれていた。
神か。
因みに、この日出席してくれていた『姐さん』といった風情の訪問看護師のサカタさん(仮名)は元々はこの病棟のナースだった人で、ここに来る前エレベーターに乗り合わせたスティング先生に
「昨日決めて今日退院てどういう事やねん!?」
と言って詰め寄った強者らしい。
いいぞ、もっと言え。
そんなメンバーで始まった退院カンファレンスでは
娘②の術後の状態。
今後の訪問看護、訪問リハビリの予定
今後の通院の頻度
次の治療までの大まかな予定
が医師とその他のコメディカルの間で確認され、私にも説明された。
そして、医療コーディネーターの水川あさみ似のKさんが
「お母さん、今までの話の中で不安な事は?」
と聞いてくれたので、私は情けない位小さい声で
「...全部です」
と答えた。
風邪その他感染症一切厳禁の術後ほやほやの心臓疾患児を医者も居ない、医療器機も全く無い自宅に連れ帰るだけで緊張と重圧で目眩がしそうな所に、追加で『経管栄養』。
しかもこんな状態のまま帰宅するとは思っていなかったので、自宅は普通の乳児と言っても疾患児だけれど、その乳児を迎える準備しかされていなかった。
どうします?どうしたらいいんですか?
私はこのまま自宅に帰ると言う不安で実のところ昨日から気が動転していて、そこにいる主治医に思い切り詰め寄りたかったが、そこは39歳(当時)の自制心が勝った。
「あの..体調管理は兎も角、この経管栄養はいつやめられるんでしょう?何ヶ月位続くんでしょうか」
私は脳内に残った最後の大人気と自制心を振り絞って、質問を続けた。
今思えば可哀想な位何もわかっていない質問を。
「数ヶ月で経管離脱というのは、ちょっと難しいかもしれません。」
「まずは経管栄養と仲良くなりましょう」
私のか細すぎる声での質問に答えてくれたのは、カンファレンス中ずっと黙って話を聞いていた、言語聴覚士のカトーさんだった。
この人は何というか「私と同じ星の人」という感じの、眼鏡とパーカー、多分同い年位の静かな女性で、私を慰めるように諭すようにそう言ってくれたが
仲良くなる?
この鼻からチューブと?
嫌です、一刻も早く別れたい。
私は『旦那の横暴に苦しむ離婚希望の主婦』みたいな感想しか浮かばず、
「...そうですか」
と落胆丸わかりの返事を返す事しか出来なかった。
訪問看護師のサカタさんは
「お母さん、凄く不安みたいだから、契約書作成もあるし出来るだけ早く一度お家に伺いますね!」
「あと、リハビリも!」
そう明るく言ってくれたが、私の心は撃沈した。
娘②はこの場の大人が全員、自分の事を話しているとわかっているのかわかっていないのか、私の膝の上でしきりに顔を掻いていた。
マーゲンチューブが抜けないように顔にチューブを貼り付けている、そのテープに肌がかぶれていて痒いのだ。
そしてカンファレンスでは
週1回の訪問看護利用
週1回の訪問リハビリ
月2回の通院
を決定。娘②の退院は正式に確定した。
◆
母が手伝いに来くれて、大荷物と共に乗り込んだ帰りのタクシーの中で、娘②はとても緊張していた。
産まれてから4カ月超、初めて見る外の世界だ。
娘②の目にはどう映っただろう。
12月に産まれ、お宮参りも百日のお祝いも初節句も何も出来ないまま、ずっと病院の天井を見上げて暮らして、季節はもう春の終わりになっていた。
「ホラ、娘②ちゃん、あっちにお花が咲いてるよ」
ソメイヨシノが散って、八重桜が盛りの季節だったので、私はタクシーの窓から見えたピンクの八重桜を指差してみたが娘②は外には一瞥もくれず
『早く病院に帰りたい。』
そんな表情で眉間に皺を寄せていた。
超わかる。お母さんも病院に帰りたい。
この子を連れて帰って、本当に無事に育てていけるんだろうか。
あの恐怖のマーゲンチューブの入れ替えは病院では全然上手くいかなかったのに。
娘②の鼻から胃に通された栄養摂取の命綱、マーゲンチューブの入れ替えは自宅では私の仕事になる。
自宅に帰った医療的ケア児の身体につけられたチューブや、其の他医療機器の管理はその多くが親の仕事で
その殆どを担うのは大体が母親だ。
経管栄養用のマーゲンチューブの入れ替えは病棟にいる間にナース指導のもと、練習用の人形で数回、本人でも何回か練習した。
あの、練習用の『マイケル君』と呼ばれるつるりとした等身大の赤ん坊人形が
「ママ〜!ハイこれで練習しよう!」
とナースに巨大なポリボックスごと連れられてきてその箱から飛び出した時はホラー味を感じて親子で怯えたものだ
なにしろ、ヤツの見た目がほぼハゲのチャイルドプレイなので。
絶対に夜の病室に持ってこないで欲しい。
でも練習用のマイケル君は鼻に何を差し込まれようが暴れないので楽だった。
しかし、娘②本人のマーゲンチューブ入れ替えの時の暴れようは凄かった。何しろ運動機能には今のところ何の障害も無い乳児。
もう一本釣りで船に上がったカツオと言っていい。
私は暴れるカツオに頸動脈を蹴り上げられ、それでも焦って鼻に細いチューブを入れようとするので、生来超不器用な私は娘②の鼻の粘膜をチューブの先端で突き刺してしまい、娘②は鼻血を出した。
阿鼻叫喚。
しかもこのチューブ、胃に通すところをうっかり気管に入れてそのまま使用するような事が起きてしまうと
医療事故だ。
かなりやばい事になる。
その為に一旦胃まで通したチューブは、シリンジ(先端に針のない注射器)で空気を通し、その空気が胃に入っていく音を聴診器を当てて聞き取り『ポポポ..』という空気音が確認出来たら胃まで通ったという事になるが、これが娘②の泣き声が煩くて全然聞き取れない
私は泣いた
こんなん出来るか
そんな状態で今から帰る自宅、心細いを通り越して気が遠くなった。
しかし
「お客さん、こっち曲がったらいいですか?」
何しろ、徒歩で30分の自宅。思案の末涙を流す暇もなく、タクシーで10分位の家に帰り着いてしまった。
娘②ちゃん、ここがお家だよ、にぃにもねぇねもパパも待ってるよ。
私は大荷物と娘②と、抱えきれない不安を持って、娘②にとっては初めての自宅に帰り着いた。
◆
娘②の帰宅から1週間
実家から応援に来てくれていた母は「一人で大丈夫け?」と後ろ髪引かれつつもやはり実家を何ヶ月も留守には出来ないが為に、帰宅してしまい
私は死んだ。
いや、生きてるけど。
比喩的なアレで。
娘②は、初めての『普通の家』というハードに全く馴染めず、四六時中泣いていた。
抱いていなければ泣き止まないし、時に抱いていても泣き止まない。
そして抱いていると何も出来ない。
『出来るだけ病院と同じ環境で』と思って、第3子にして初めて購入したNICUと小児病棟で使っていたものと同機種のお高いコンビの電動スイングラックも、主人不在のまま虚しく娘①のプーさんの寝床になっていた。
3月の手術で右肺動脈と大動脈に入れた人工血管が、娘②の体躯にはまだ太すぎて、ハイフローを起こし、肺に負担が...
兎に角術後の身体がしんどくて苦しいのだ。
そして泣くので余計に苦しくなってまた泣く。
娘②のこの頃の顔色はいつも赤紫色というか軽くチアノーゼの色だった。
だって泣くから。
そしてミルクの注入は4時間毎、日に6回。昼夜は問わず。
これだってスティング先生が3時間毎、日に8回というのを
「それは普通の家庭で母親一人が担当するには、全然現実的な数字ではありません」
と自分に大阪の天神橋筋に居そうなおばちゃんを憑依させて値切り、回数を減らしてもらっていたものだが
一回のミルクの注入、これは『イリゲーター』と言う昔の点滴瓶のようなプラスチックの器具を高いところにぶら下げて、鼻のチューブに先端を接続し、その落差で少しずつミルクを流し込むもので
多分当時は一回量160ml。娘②の胃にその量を全部入れるのに、1時間以上かかっていた
そうしなければ、吐いてしまう。
そうしなくても吐いたけど。
もうどないしたらええねん。
そしてマーゲンチューブを顔に貼り付けているテープにかぶれ、その痒みでちょっと目を離した隙に器用にそのテープを毟り取り、そうするとそのついでに胃に通した筈のチューブが鼻からずるずる出てきてしまう。
その度に入れ替えだ
勿論上手くいかない。
流血の大惨事、鼻血で。
そして上の二人の子供達の世話。
娘①は当時、ピカピカの1年生の1学期で、彼女には初めての小学校生活の筈だったのに私には
「今日学校どうだった?」
「お友達できた?」
と聞いてやる余裕すら無かった。
鬼か。
息子に至っては、元々発達障害のケがあったものが、この家庭環境の激変で本人もすっかり動転し
「今週何回学校から電話があったかもう不明」
という状況になった。
もう勘弁して。
この2人は娘②の誕生から、4ヶ月半。やっと帰って来てくれた妹を、たとえ、変な医療器具を鼻につけて自宅でもマイ点滴台をガラガラと付属させて暮らしていようと、とても可愛がってくれて毎日学校から帰っては
「娘②ちゃん元気?」
「テープ剥がさなかった?」
と聞いて、2人とも宿題をしなさい、算盤に行け、と追い立てなければ娘②の側をなかなか離れなかった。
それだけは救いだったが
それでもこの繁忙極まる、そして緊張の連続の娘②の日々のケアと普段の生活を並行する事に私はあっという間に疲弊し、夫に
「こんな生活長く続けられない、娘②はすぐ吐くし、注入の時間がすぐにやって来て外に出ることもままならないし、娘①と息子に手が回らない、あの子達が可哀想だ、こんな親の元に帰ってきた娘②も可哀想だ」
そう言って
号泣した
まずは君が落ち着け
39歳の大人気と矜持はどうした。
夫も夫で困っただろう。
夫も娘②を出産から入院、手術から退院とここまで持って来るのに会社の看護休暇有給休暇あらゆる休暇を使い果たし、ぼちぼち親に死んでもらうか位の所まで来ていた。
そして、この時まだ娘②の障害に纏わる凡ゆる申請をまだ未申請もしくは認可待ちだった我が家は、お恥ずかしい話、経済的にもあまり余裕が無かった。
故に、私と娘②の為ににそうそう仕事を休んでもらう訳にも行かなかった。
この頃の、我が家は
五里霧中とか
四面楚歌とか
そんな四字熟語を文字通り体現していたと思う。
◆
言語聴覚士のカトー先生は、毎週1回、我が家に訪問リハビリに来てくれる事になっていた。
この穏やかで、その実とても誇り高い嚥下と言語訓練のプロである彼女は、その後1年以上に渡って私達親子の経管栄養離脱マラソンの伴走を務めてくれることになる。
しかし彼女がリハビリ初日、機嫌が悪くてどうしようもない娘②に行ったのは
「まず娘②ちゃんが安心して居られる環境を作りましょうか」
と言って、娘②の電動スイングラックにタオルや授乳クッションを使って、何というか娘②にフィットする巣穴みたいなものを作り
そこに娘②を横にして
そして、先生自らゆっくりミルクを注入をする事だった。
「泣くと空気を飲んで余計に吐きやすくなるので、まず落ち着かせて」
「医大のST(言語聴覚士)さんからの引き継ぎにもあったんですが、娘②ちゃんに吸啜反応はもう無いので、無理に飲ませるより、まずは経管栄養をママが使いこなす事から始めましょう」
「離脱は、それなりに長くかかります」
「1年位は、一緒に頑張りましょう」
と。
ハイわかりましたと、返事をしながらも、実のところで私は心から落胆した。
と言うより、絶望した。
嚥下のプロである言語聴覚士をしても短期決戦ではこの状況を何ともできないのか
私は、カトー先生が帰った後、午後の注入をしながら娘②の鼻のマーゲンチューブに繋げられたイリゲーターの滴下をぼんやりと眺め
「口から哺乳しなくて生きるとかイグアナかよ...」
という暴言を吐いた。
思えば何でイグアナなのか。
ごめん娘②
ついでにごめんイグアナ
しかし、傍で宿題をしながら耳ざとく私の独り言を聞いていた息子は逆に
『頑張れ!イグアナから人間に戻ろう』という謎のスローガンを娘②の前に掲げたのだった。
それも、宿題の算数のプリントの裏にわざわざ書いて。
それをそのまま提出したのだから、息子の担任の先生は訳がわからなかっただろう。
その時、疲れで頭が朦朧としていた私は、その息子の発言が行動が何となく面白くて、そして何となくその様子をツイートしたのだった。
遡るとそのツイートは2018年の4月28日。
5分後にリプライが来た。
『うちの息子も現在イグアナです!笑 頑張れ娘ちゃん!一緒に頑張ろう(*^^*)』
娘②とは違う内臓疾患を抱える男の子のママからだった。
多分娘より少し大きな男の子。
聞きようによっては暴言というか、実際私の暴言なのだけれど、その人は当事者のママとして憤る事なく『頑張ろう』と返事をくれた。
その次もその次も
『退院したんですね、おめでとう』
『うちの子も口唇口蓋裂で、普通にミルクを飲めずに特殊な哺乳瓶を使いました、それはダメかな?』
『うちの子はシリンジを使いましたよ』
『先天疾患持ちのうちの子も経管栄養で、しばらくは離乳食と併用しました』
という返信がいくつも続いて、そして最後に
『頑張って!』
と結んであった。
当時私のツイッターアカウントは今の半分位のフォロワー数だろうか、その中で『経管栄養』というワードをヒットさせて、反応できる人がどの位いるのか
そんな特殊な状況を見分けて、同じ状況のもしくは過去に同じ状況にあった主にママ達が、私のアカウントにやって来てくれた。
頑張って
と。
『人と人がその匿名性ゆえに生の感情むき出して殴り合う』
そんな事が日常茶飯事と言われる、悪名高いインターネットの世界にあってみんな不思議な位優しかった。
そうは言っても、遠くの親切な誰かが「うちも一緒」「頑張れ」と反応をくれた位で特に私のこの現状は何も変わらないのだが
この意味不明な艱難辛苦の中にいるのが今、世の中で私一人では無いんだという実情の把握が
なんとなく私を落ち着かせた。
現実は一ミリも変わらないけど。
私は嬉しかった。
そして『ありがとう』と思った。
◆
あの時のママ達が何故そんなに優しかったのか、娘②を2歳近くまで育ててみた今はよくわかる。
皆、我が子の病気や障害で
「もう、この子を抱いて死のう。何処から飛び降りようか」
位の状況を、いや、そこまでは行かないかもしれないけれど、そんな苦境を走り抜けてきた人は、過去の自分と同じ渦中にある同じような人を見過ごす事が出来ないのだ。
だからノーリミットで優しい。
あの時の自分を助けに行くような気持ちで言葉をかけにきてくれる。
同じような事はそれから何度も起こった。
娘②の鼻水が酷すぎて、それが痰を誘発し、よりミルクを吐きやすくなった時期も
『鼻水はメルシーポットがベスト』
『いや、いっそのこと本気の吸引機を用意するのは?』
『吸引用カテーテルが使えたら吸ってみては?』
というリプライが届いた。
その時勧められたメルシーポットは我が家で今も活躍している。
そして、娘②がカテーテル検査で房室ブロックを起こし心停止した時も、それから10時間を超える長い手術に挑んだ時も
『大丈夫ですか?』
『頑張って!』
『祈っています』
そう励ましに色々な人がやって来てくれた。
特に娘②の命に関わるような状況にあって、リプライやDMを頂いて驚くのは
『うちの子はずっと昔その病気で天国に行ってしまったけれど、今を生きている貴方のお子さんはきっと大丈夫だと思います』
と伝えて来てくれる人だ。
貴方の子は亡くなって私の子は生きているというのに。
人は、どこまで優しくなれるのだろう。
◆
娘②の
『激闘!医療的ケア児生活』
は、今経管栄養のマーゲンチューブから在宅酸素用のカニュラにシフトして現在も絶賛継続中だ。
2度目の手術の術後入院中、執刀医のゴッドハンドによって、新しい血行動態(心臓の血液の流れ)を手に入れた娘②は、突如猛然とご飯を食べるようになり、あの最初の退院の際、退院日1日前通達をした主治医のスティング先生に
「娘②ちゃん、もうマーゲンチューブ要らないよ」
とあっさり離脱完了宣言を貰った。
しかし、そこに続けて言われたものだ。
「で、家に帰ったら在宅酸素な」
医ケアは続くよ何処までも。
でもこればっかりは仕方ない。
期間としては、娘②が帰宅し経管栄養児の自宅ケアのエクストリームぶりに号泣したあの4月から、経管栄養を卒業するまでは約1年を費やした事になる。
それでも、この業界ではそこまで長い期間を費やしたとは言えない。
むしろ全然短期決戦だ。
あの日の私にもそれを伝えてあげたい。
それなりに大変だったけど。
そして、その渦中『お粥を食べられました』だの『パンを食べました』だのをツイッターの中で呟いただけで
『よかったね!』
『すごい!』
『あと一息ですよ!』
『娘②ちゃん頑張って!』
そう言って見ず知らずの優しい人達が励ましてくれるという事も。
そして私も、一応医療的ケア児とか、心臓の手術とか、先天性疾患とか障害とか、そういう山を我が子と一緒に登っている人達の列の後ろのもっと後ろの方を歩く一人として、
自分のタイムラインの中の誰かの
『今日、ウチの子が手術です』
というツイートを見かけると
脊髄反射で良いコメントができるような人間では全く全然無い癖に
考えて、考えて、ためらいながらつい
『ご心配ですね、
きっと今日は長い一日になります
しっかりご飯を食べてくださいね
私も遠くからですが
お子さんの無事のお戻りを
お祈りしています』
そうコメントしてしまう。
私は貴方の知らない人の中の一人ですがお子さんの為に祈ります。と
そうやって
あの、退院後自宅で娘②をどうにもできないと切羽詰まった日に
娘②の手術の終わりを待って、緊張と不安で居ても立っても居られなくなった日に
知らない誰かに貰った優しい言葉への『ありがとう』を
また違う誰かに返している。
サポートありがとうございます。頂いたサポートは今後の創作のために使わせていただきます。文学フリマに出るのが夢です!