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YELL

洋平は作業用手袋を外して畑の畦に腰を下ろした。手袋を地面に置き、仰向けになる。目を閉じて息を吸い込む。草の匂いがする。標高900mの高原の空気が肺を満たすのを感じる。
三ヶ月前、七年付き合った婚約者と破局した。任期付き研究員という洋平の仕事が相手の両親は不安だった。あっさり別れを告げられた。
全てを手放し農業アルバイトに応募した。引越してきたのが二ヶ月前。

誰かが草を踏む音がした。洋平は目を開けて音の方を見た。同僚のゲンさんだ。自称六十二歳。自社の譲渡と二度の離婚を経て、五年前からこの農園で働いている。
洋平は起き上がって2000㎡ほどあるズッキーニ畑を眺めた。黄色い花が目に入った。
「咲いてきましたね」
洋平が話しかけるとゲンさんは頷いた。
「忙しくなるぞ」
そう言ってペットボトルの水を飲んだ。
農園では夏の間、主にズッキーニを出荷している。毎日たくさん実をつけるため、朝夕は収穫で忙しくなる。
洋平はふと気づいた。ズッキーニは蜂が雄花の花粉を雌花へと運ぶことで受粉する。しかし今咲いているのは全て雄花で、雌花がない。
「全部雄花ですね」
洋平が呟くとゲンさんはペットボトルを脇に置き隣に屈んだ。
「先に咲いて、誘ってるんだよ」
ゲンさんはちょっと艶っぽく言った。洋平が驚いて見ると、日焼けした顔が笑っていた。
「最初の雄花が蜂を誘う。蜂が来る頃には自分は枯れるが、新しい雄花と雌花は受粉の機会を得ることができる。賢いやつらだよ」
洋平は感心した。ゲンさんがニヤニヤした顔で洋平の肩を叩いた。
「お前はどっちがいい?蜂を誘う男と受粉する男」
「ぼ、僕はそんな」
「はっは!お前はまだ若い。しっかりな!」
ゲンさんは勢いよく洋平の背中を叩くと、空のペットボトルを持った手を振りながら行ってしまった。

洋平は立ち上がって畑を見渡し、もう一度深呼吸した。緑の中にところどころ黄色が見えた。
誰かの声が聞こえた気がした。

「100人で書いた本~声篇~」 (キャプロア出版)に収録 https://www.amazon.co.jp/dp/B07D1PHLG1/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_IX1cDbRVP54BW


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