加速するよ!

君の付加価値は、その加速度であって、決して速度ではない。

先進感があれば良いという訳ではないですが、付加価値はその先進感です。それは未来的にでも懐古的にでも、付加価値はその到達済感です。そのためには、時代の先をいくのがマストなわけでありますが、世界の、宇宙の移動するスピードは、最先端の者の最先端遺物です。(最先端の者ではない。人間およびそれに準ずる者は宇宙の域を優にこえる。宇宙に遺したものが、それが世界では遺物となる。なぜならば認識されるから。)
そのスピードからして見て(観測して)先進だなあと感じる(のであって知覚するわけではない)のは、その者の加速度です。感覚は予測を含みますから、一定の加速度で加速する者は、今ごろこのくらいの速さで、このくらいの場所(n次元的)にいるのだろうと、検討のつけようがあって、我々のスピードを基準とすれば、彼(ら)が先端者であって、君は常に、逃れようがなく、最先端者であるのです。

本当でしょうか

逃れようがなく、最先端者であるというのは、偽ではないでしょうか。概念は君を直線的に(いわばユークリッド平面的に)、追うのですから、なんであっても、ナニカシラから"逃れようがない"、つまり逃れられないということは、それはつまり君は最先端者タイであったとしても、単独首位たりえないのです。

単独最先端者(とは)たりえないのです。

しかし、落胆(しているとすれば君は結構な楽観をしていて、十分良いが、とにかくその類のフィーリングsがあるとして、そうなって)は計画外だが、例えば、50m走のタイムが同じで、スタート及びゴールが同時で、その間も常に完全に並走し、(4次元的に)平行に走り、つまり加(減)速を共にした人間に、追われている、そして追い付かれて、そして囚われるとでも、どうして思おうか。

並走する最先端(タイ)者として、加速するのです。

逃れようがないが、しかし何か制限を受けるわけではない。よって、君は、加速度、または減速度、またはその両方において、常に最先端者たりえる。自分が最先端者であるということと(もしくはそれに付随する、準ずる概念たちと)完全に並走しつつ。

要するに君はどう足掻(かないで)いても最先端をゆく。つまり、君の位置は、君の価値は、君の加速度に完全に単一にまるでモノカルチャーのように依存する。よる付加価値も、よって、加速を要請する。いうなれば、自分と並走する概念以外の者、物、モノから感じれば付加価値は価値と同義であり、それらは加速度に依存する。ただし、それらは予想、予測(感覚において同義であるこれら)によるものであるから、それが事実かどうか、既成かどうかは不明であり、そして関係がない。予測される位置は加速度によってのみ、その関数をもつ思考回路において独立に求められ、そして現にその位置に予測として"誕生"する。

加速は君の意思によって、そしてなにより君の無意識によってなされます。

一番大切なことは、その加(減)速を感じることです。自らのスピードに惑わされることなく、そのスピードの変化に耳と鼻をとがらせるのです。これこそ、自らの価値を自らの位置を、自ら定義し他者に予測させ、もって他者の思考に自分の価値を創造するのです。

加速するよ!

減速するよ!

止まるよ!

戻るよ!

超加速!!

これらはすべて、最先端たる君の感覚に支配された、世界への予告編であり、世界は来る未来もしくは過ぎた過去にそれを予測し創造し、そして来る未来もしくは過ぎた過去にそれを確認するのだ。

加速するよ!