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旅に生きる番外編田村市マイナー神社シリーズその⑤~2019/9/11~

※皆さまからの投げ銭で旅をする記事の番外編です。今回の水害で水没した工具なんとかしようぜ!的な記事なのでちゃりんちゃりん投げていただけると非常に助かります

その①  その② その③ その④

詐欺タイトル継続中(・´з`・)

三春町ってなんなん?と。

まず『滝桜』が99%の一般的反応でしょうかね。残りが『愛姫の故郷』

池辺晋一郎(9条の会はじめ左系に関わっているのが難点)の名曲(^ν^)

伊達政宗の正室の実家が田村氏治める三春藩でその中心都市が三春町なわけです。

改易されて最後は秋田氏が統治しているところで戊辰戦争を迎える。

その時に新政府軍には恭順無血開城、ところがカモフラージュとして奥羽列藩同盟軍には援軍を求める『裏切り』をしたつうことで

『三春の嫁はもらうな』なんて会津や二本松の人は言われた・・・・らしいんだ(´;ω;`)

でもわたし親戚が会津にいるから火の玉ストレートに聞いたことあるけど

「昔はあったけど気にする人は今はいない」だったんですね。

子供のころです。

でも母の妹(葛尾村なので三春藩ではないんだけれども)が嫁に入ってるし、イジメがあったとも聞かなかったし(こういうのマトモに聞いちゃうアホな子供だったんですよ)

ひょっとしたら会津若松市内だったらまた変わったかもしれんのですが。

天日鷲神社 (33)

で三春ですが『自由民権運動』の本場であります。

そして『三春馬車鉄道』が通った交通の要所。

街中は綺麗になってますが古い家(見学はできません)や酒蔵、資料館などもあって歴史は感じられます。

あとは『三春ダム』

ここはまあアレですね、ここには書けない思い出がたくさん(´・ω・`)

天日鷲神社 (34)

じっくり観光するには物足りませんが1日くらいささーっと見るぶんにはいいかもしれません。歴史好きな人はね。

ただ街中以外は不便というか。

まず車か(゚」゚)ノ タクシー移動じゃないと動けません。ただ小さな文化財なんかでも田村市よりは到達しやすい感じがします。

そうそう三春町も案内できるんですよわたしσ(゚∀゚ )

ヘタすると田村市よりもアホみたいに詳しいんで(;´Д`)

天日鷲神社 (41)

それでこの神社。

なんかここは館の跡で神宮寺だったらしいと。

ただなぜ主神が天日鷲神なのかっていうのはわからんのですが。

で山っていうか崖に家がへばりつくようなあまり畑も田んぼも面積が取れない集落なのですが、この地は『旗本秋田家』の領地だったそうです。

この地に入った秋田家とは違い旗本、所領は5000石だったので実際にこの土地には住んでおりません。ずっと江戸~(*´ω`)

ですが秋田家三春藩の初代の弟、そして5000石だから定府の大身旗本です。

たぶん農業とは別の殖産をして石高を上げたかったのでは・・・・と想像します。

天日鷲神社 (52)

天日鷲神が祀られていたここがこのへんでは一番豪華になったのはそれかな・・・・という予想です。

天日鷲神社が勧請された理由ではありません(ヾノ・∀・`)

でなんでここが豪華か!?という予想のブツがあるんです

天日鷲神社 (53)

ちょっと写っている能舞台。これも規模に不釣り合いなほど立派なものです。破損しているようでブルーシートがかけられていましたが。

天日鷲神社 (55)

ね?立派(゚∀゚)でもこれではありません

天日鷲神社 (54)

本殿(超逆光)

これもまた豪奢な作りなのです

天日鷲神社 (66)

天日鷲神社 (67)

ここはお好きな人はけっこう眺めていられると思います。

天日鷲神社 (70)

なんでボケるんやろ・・・・岩手県以来調子が悪いで。。。。

天日鷲神社 (71)

天日鷲神社 (72)

透かし彫りの獏と龍(となんだっけ?)も凄いんですがこれではない。

これだ!

天日鷲神社 (74)

賽銭箱(^ν^)

木製でこれも歴史を感じるブツ。これの横を見ると

天日鷲神社 (68)

『明治三十三年 旧九月十六日 撃剣會紀念』

はいでた(゚∀゚)

これはnoteで何人食いつくんだって話なんですが

『撃剣會』ってのがねポインツなんです。

天日鷲神社 (77)

明治維新で刀は銃に取って変わられました。

もちろん廃れたわけではないけど腰に帯びて歩く必要はなくなりました。

廃刀令により下級の武士や彼らへの稽古などで剣術に生きていた者達が困窮したわけです。

華族士族はまだ下手な商売や投資に私財を投じる余力もあったかもしれない(東北本線の建設債なんかはこれをアテにしてましたし)

だがただ身分と録を奪われた武士が「はい平民」と行くわけもないのですね。

そこで旧幕府講武所剣術教授方であった榊原鍵吉は興行として剣技を見せてお金を稼ぐことを思いつきます。

それを『撃剣興行』と呼びます。

天日鷲神社 (81)

これは大当たりして流行るわけですが、流行りモノはすぐ真似が出てきます。すでに終わりかけのタピオカだって雨後の筍しゅらしゅしゅしゅですからね。

画像17

錦絵はこちらから拝借

神道無念流の剣術家、2代目斎藤弥九郎がこれに影響を受けて結成したのが『撃剣会』

明治6年の事。

もうここから東京だけではなく地方都市に興行が広まった。

いくら維新前に刀ぶら下げてる武士を見ていた人達とはいえ試合を見たことは少ない。

しかも薙刀や棒術など異種戦も見れたわけだから娯楽に飢えた庶民はやんややんや(゚∀゚)

天日鷲神社 (87)

だが政治家の演説の前座に使われたり、素人には勝ち負けがはっきりわからない団体が乱立して廃れる(剣術としてはレベルが高くても興行としてウケなければ銭はもらえない)

ここからは本や資料の話になるので自分の耳学問ではここまでなのだが、

衰退した後も地方のドサ廻りのようなことはあったのだと推測する。

前説はできなくなったが、例えばお祭りのメインイベントとして興行したのではないか?

今のようにTVもラジオもない。新聞だって情報はちょい遅れ気味、それに全戸購読してたわけでもないだろう。

そうなると首都圏はダメでも田舎ならいける。

しかも東北の山奥ならそれこそ神社の境内で奉納という建前で農民から金を取れる(゚∀゚)

天日鷲神社 (62)

明治33年なんてとっくに廃れていただろうに賽銭箱に記録されている。

これをどう着地させるか?

次回へ続く




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