白坂_山神社__69_

2019/06/27 旅に生きる ~地形考⑨~

※皆さまからの投げ銭で旅をする企画です。

その① その② その③ その④ その⑤ その⑥ その⑦ その⑧

今回から西会津編です。

49号線を綺麗になぞらず、途中で旧道へ入る。

過去の話をまたここで書くと3度目ましてになってしまうのでまとめると、

『過去に栄えていたけど動線から外れて寂れた田舎はだいたい取り残される』

その取り残されるものは『物理的』と『心理的』の両面。

いっけん高速が通って便利に見えるが鉄道・バスや一般道、日常の移動や仕事に使われる交通網は死滅する。 

さらにモノと金が集まっていたプライドだけは一丁前のまま山奥というパラドクスで、現代社会に馴染めないまま過疎という問題にとまどい、善意ある人間を追い出し続けついに行き詰まると悪意ある人間をいとも容易く懐へ招き入れる。

この感覚に一番近い感情は復讐なのだろう。自分を滅ぼしかねないモノなのに恨みは一切ないのは音楽だけだ。

このように恨みや呪いのような言葉を書いているといつかこの地に災いが起きるのだろうか?

「明日死にますよ」

と毎日叫んでいればいつか誰か死ぬくらいにバカらしい無関係な話だが、みなさんは無意識にこうも思う。

「そんな事言って本当になったらどうするの」

言葉にする=実行力

なのであれば幼稚園生の口喧嘩でも戦争ができる。

「海賊王に俺はなる!」「俺がガンダムだ」「わたしもプリキュアになる」

子供の夢はかないまくって世界は平和になりすぎて頭がどうにかなりそうだ。

現象を説明する言葉には世界中ほぼ意味はある(オノマトペのように意味がない場合もあるかもしれない)

それを海外ではわかりやすい『呪い』の言葉として書いたり唱えたりするのだが、日本は違った。

『言霊』とはシンプルであり複雑である。

『四=死』のように単純極まりないものから、

『秋の夕暮れ=死が近い』のように回りくどい言い回しまで。

これをまともに研究すれば分厚い本が一冊できあがるわけだが、『旅に生きる』スタイルで捕まえていくことにしないと収拾がつかない。

人間が何かを始めた瞬間、

それはただ、腹が減ってそこらじゅうのモノを口に放り込んでいたような時代から。

たぶん毒の有無、味の良し悪しを神経伝達、脳の働きとして感じ取ったはず。

自分だけなら目で確認して次に覚えておけばいい。

少数の群れなら食べられるモノを指さしで教えてやればいい。

子供が増えて群れが多くなると、言語の前段階としてが鳴き声のようなモノで伝達をしたのだと思う。

その時は「YES」「NO」程度でも間に合ったかもしれない。

だが『地形』がかかわってくると言葉は大きく発達したはずだ。

「あそこの向こうに木の実がある」

そのあそこが『岡』なのか『沼』なのか『山』なのか。

そういう地形を表す記号的な意味合いの言葉は視覚と合わせて完成する絵のない地図のようなモノだったのではないか。

だんだんと地形がわかれば帰り道も迷わなくなり、より遠くへ移動できる。

歩き歩き歩き、見た事もない景色を乗り越えていくと、自分達と同じ人間が、暮らしている集落へたどり着く。

その時に

「どこから来たのか」を説明するだけのそっけなくたどたどしいカタコトのやりとりが、やがて途中の景色を歌い上げる歌や詩となり、気象や食物・動物の様子を交換するツールとなり文化になる。

『文化は地形なり』

・・・・は言い過ぎだが。切り離せるものでもない。

人間はどこから来たのか?という壮大な問いに立ち向かえるほど高尚な頭もないことなので自分でできる範囲で物事を捕らえる。

例えば『陰謀』とかそういった類も、事実であればそれは『手の込んだ策略』である。

確認できないことをさも見てきたかのように、さらに『世界の秘密』なのにインターネットでバラまかれていてそれを知っているあなたはなぜ『身の危険にさらされていないのか?』が証明できなければやはり病人の妄言で済まされてしまっても仕方がない。

世の中には2通りの思考の発露をする人がいて

『点』が理屈で『線』という感情で繋ぐ人間と

『点』が感情で『線』という理屈で繋ぐ人間だ。

どちらが正しいかは非常に難しい話なのだが、線が歪ならダメだし、点が滲んでどこから線を引いていいのかわからないのもまたダメだ。

そしてそれをなるべく整えて綺麗にしようとしても隙間ができてしまうことが世の常だ。

その時の『推理』がトンデモか理路整然か。ここは知性と同じレベルでその人の人間性全てが問われる。

今回のシリーズで初めてしっかりと物件に触れよう。

この『山神社』は自分ははっきりしたことはさっぱりわからない。越後街道の宿場町として栄えた場所、とりあえずここに『2つ』神社がある。

山神社はわたしの記事ではお馴染みオオヤマツミが主神で、『地形的に脆かったor重要』なところにあると何度も書いてきた。

ここも民家の間をお邪魔しなければ入れない。入ってしまえば鳥居が見えるが、基本道路を通り抜けるだけの景色から見つけることは困難な場所にある。

住んでいたからわかったアドバンテージ。

鎮座している場所からすれば弥平四郎が一番感慨深いのだが、境内に入り込んだ時の包容感はここが一番柔らかい。

 立地としてはここもパターンにはまっている。

なんの苦労もなく民家を抜け畑の横を登ってたどり着けるのに、神社の敷地がちょうど谷というか雨が降った時に沢となって水が逃げそうな境界になっている。

ここが決壊すれば宿場町に直接山から水が入ってしまう。この沢に沿って逃げてくれれば道はふさがり畑は若干犠牲になるものの宿場より下で川へ溢れさせることで逃がすことができる。

ここで水が逃げるからこそ宿場ができたがそこに意味を持たせてオオヤマツミを勧請したか、オオヤマツミを勧請してから、水で浸食され宿場が安全になったか。

どっちが先かなだけで間違いなくここが宿場が山からの大雨による水害や土砂崩れを守る防衛線だ。

右下の草からすでに斜面は始まる。際はここだ。

どうよ?

いや自分の神社じゃないし、自分今住んでないけど。

それに今時のブロックで補強されて若干趣は薄いかもしれないけれど。

ここは神域ですよ。

そして誰も来ていないのが明らかな倒木や木の枝。

全てが愛おしい。

かなり長編になっているが、次からはテンポよく写真、そしてまとめに入りたいと思う。

複数回にはなるけれどもうちょっと。お付き合い願う。

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投げ銭を旅費にして旅をしてレポートしたり、リクエストを受け付けて作曲をしたりしています。