白坂不明神社__2_

2019/06/27 旅に生きる ~地形考⑩~

※皆さまからの投げ銭で旅をする企画です。

その① その② その③ その④ その⑤ その⑥ その⑦ その⑧

その⑨ その9.5

その9の山神社の下。新潟からは順序的にはこちらが宿場の入り口になる神社がある。

なぜ後回しにしたかというと情報が一切ないから。名前も縁起も何もわからない。自分でもよく見つけたと思う。

白坂の宿場。ここはなだらかな下り坂で、山神社の後ろを逃げる山からの水はここより上には行かない(かったと思われる)

そしてこの画像にすでに神社へのアプローチが写り込んでいるのをわかる人は・・・・まずいないと思う。

ここ(´ρ`)

まだわからない?

ほらね?

昔はきっと神社があると明確にわかったはずだと思う。街道を往く旅人は旅の無事を願っていったかもしれない。

でも木は後年植えられたような規模ではない。

時代を経て入口がわからなくても問題がなくなった。

元々街道から木陰だった境内はより隠れるようなひっそりとした空間へと引きこもったのだろう。

別に山奥ではない。草に包まれてわからないだけで徒歩20歩で入れる。だが道路から中は一切見えない秘匿された神社はただじっとしている。

よく「人はちっぽけだ」なんて言う。

まあ不幸にうちのめされたり、綺麗な星空を眺めた人間が呟きそうな言葉だ。

だがこれは比較する対象があるからこそ。

それがなぜかいきなり『宇宙』などに飛んでしまうから本質を見逃すのかもしれない。

山もデカいし海も広い。なんてこっちゃないと思っている川が氾濫して自然の恐ろしさを嫌というほど味わう人もいれば、

「これくらいの雨で電車止まるなうぜー」

と都内でスマホを触りイヤホンで世界を遮断しながら世間の情報を小さい画面で得ようとし、同じ顔に違う衣装と武器を持たせただけの絵を揃えるゲームに課金をして家と仕事の往復を繰り返す。

古代の人間が天体の運行を知っていた!と騒ぎはするが、

星がよく見える山だって知っていたし。

空を眺める時にずっと立っていられるものではない。座って一息ついたはず。腰を降ろし手をつくと柔らかな草が肌を撫でる。

それが生えている大地、それがなければ生きていけず、生きる余裕が出たからこそ星を眺めているのだと認識する。

生きるための天体観測ならそれはゆっくりやっていられるモノではない。

学問は余裕。

その余裕を持って富と実在証明や認識の違い、言語、計算へとつきすすむ。

長さは身体の大きさが単位であっても、結局を距離や面積を知りたいからだし、生活の利便性によって必要になった時間も影の長さだったり。

今は基準が進化してはいても『地形がくすぐった』色々な感情の動きに反射したのが歴史と人の心の働きなのかもしれない。

日本の文化が独特なのは当たり前なのだ。

だって豊かな自然、そしてそれをある程度維持したまま近代化したのだから。

この複雑な層が日本の文化歴史であり『原風景』

その『原風景』のわかりやすい例に『言霊』や『御霊信仰』などがあるけれども、一番わかりにくいけど、現代ですら無意識に寄り添っている原風景を追及してみようと思う。

その⑪に続く


投げ銭を旅費にして旅をしてレポートしたり、リクエストを受け付けて作曲をしたりしています。