弥生__4_

旅に生きる番外編~捨てる神あれど拾う神なし、捨てられる神は人を捨てず~2019/04/03

※皆さまの投げ銭を旅費にして旅をして記事をまとめる企画です。

いつもは有料設定(全文読めます)ですが前回とこの最終回だけは無料です。

前回


弥平四郎の手前。橋を渡り荒れた路面、一部崩れかけたアスファルトを進めば美しい名の地区へたどり着く。

昭和40年以降も地図に記載されていなかったとか「本当かね」と思うような情報しか出てこない。

それでも15戸ほどの民家があったとされる。

私が西会津でのたうち回っていた時にここには2人と聞かされていた。

ここには初めて立ち入る。

用事が無かったからだ。それにこういう場所へ気を配れるようになった時に、すでに自分は痛みで毎日のように恨みとつらみを書きなぐっていた。

ここに住み着いた人がいる・・・という話を西会津を去ってから聞いたこともあるので人がいる前提で走ってきたのだが・・・・。

出迎えてくれたのは見えてはいけない中身をさらけ出す崩壊した家だった。

自分は道路が好きなだけなので、廃村や廃墟趣味はない。

むしろみんなが忘れているだけで、しっかり支えてくれている古い現役遺構を愛するほうだ。

だが、ここはあまりに違った。

これは勝手な感想だが、そういう廃村巡りをしている人の動画や写真を見ているとだいたい完全に朽ち果てきったところが多い気がする。

放棄されきっていない集落は定住者が去りそれでも残っている家や畑、電線や治水施設の管理で人が来ている場合があるだけで、やはりそれなりに無人の様相を静かに横たえている。

ところがここはどうだろう?雪囲いがしてある。設置しっぱなしではないことを肌色の柔らかな木材が語る。

でも間違いなく人はいない(はず)

 西会津町は立派な介護施設を持っている。

正直高齢少子化の己の足を喰っているタコのような気もするが、一応介護に関ることができれば、準公務員のような安定感はある。

その施設には高齢者の支援ハウスがある。

アパートのようになっていて12室、実に広々とした空間に冷蔵庫などの生活費述品が備え付けられ、24時間空調の効いた贅沢な場所で過ごすことができる夢のような場所。

こんな条件なら満員御礼、退去(この世からの)待ちのような気もする常に埋まっているわけではない。

条件がある。

『要介護認定されているが日常生活が可能』これだ。

これはハードルが高い。

歩くのに補助器具がなければいけないが、トイレやお茶を飲むようなごく当たり前ができる・・・・というのは難しい。

そもそもそれが可能であれば家にいるはずである。認知症でも独り暮らしでデイサービスと訪問介護だけで十分生存している人もいる。

さらに収入の限度もある。

貧乏なら最低自己負担ゼロで入れる。ちなみに我等氷河期世代の平均手取りなら3万で暮らせる。電気水道は1080円固定。

こんな天国だが年寄りしか入れない。

だが年寄りは年金もあるし、だいたいダメだ。

動けない人が多いから寝たきりでも入れる特養が死人待ち。

動けて収入が低くてでも要介護なんてそもそもいないんだ。

しかし冬季だけはちょっと違う。

訪問や送迎が困難な地区の人は抽選ではあるが、ここへ入居が認められる。

ここの弥生も住人はいるがその支援ハウスにいる可能性もある、わけだ。

だが衰退で喰うものは衰退で滅ばされる。

近隣、隣県の新潟の地域も受け入れている様子だが、長続きはしまいよ。

高齢化は限界を迎える。その時に今ですら厳しい人手不足、そして若い人をぶっ潰してその屍を葬りもせずほぼ死人のような老人を守る業界は行き詰まる。

その対策を施すころには緩やかに少子化がそのままスライドしたごくわずかな老人の長生きが残る。

その時はいまよりは縮小しながらも、高価な機器や設備で介護をすることになるだろう。

今の精神と体力をすり減らし、経営陣が綺麗事を言いながら現場では大人数を1人で相手にして、流れ作業のように命を扱う介護は終焉する。

この西会津は終わるのだ。

かわいそうな事を言う。

恨みがあるから言っている。否定はしない。

でも恨みが無くてもここでいつまでも営みが続くと思うほうがどうかしている。

コミュニティの崩壊を一番知っているのは当事者なのだから。

それでも手を打てない、打つ手を間違えている年寄りにはご退場願うのは本当は筋なのだが、私たち捨てられた世代はやさしさではなく

『本当に何もしない』

というただ一点の選択肢でのみ呼吸をしている。

苦しむも苦しまないも神次第。祈れ祈れ。

しかし祈れば手がふさがる。ふさがった手では畑も耕せないし手仕事もできない。

働く手では祈れない。

どのみち終わりだ。


ところで、とにかく現地の息遣いを知るには交通の動きを見ればいい。もっと小さな範囲ならゴミを見ればいい。

この小さな建物、左の看板はゴミの収集日が書いてある。

なぜかピントが合っていない。理由は不明だ。

だがここを開けると大変なモノが捨てられている。

これは現時点で一番西会津町弥生の崩壊を伝える写真、記録であることを宣言する。

これが建物の中。

地蔵だ。

西会津の観光案内を調べればとても綺麗な写真を目にすることができるだろう。

飯豊山ほどではないが登山者には人気の鏡山の登山口である弥生。

だがそれがパンフレットに載ることはない。

この地蔵も。

ゴミ収集日の看板が貼られ、さらに中もついにゴミ捨て場にされてしまったこの地蔵は声を上げることもなくただただここにいる。

座布団に散乱したゴミ、長く使かわれいない証の埃。

赤いポリタンクは外部の人間が捨てていくものだろうか?

ここに高齢者しかいなかったとしてこれを訴えなかったのだろうか?

ここに人はいなかった。

移住した、かつていた人はこの扉を開けなかったのだろうか?

画像がぼやけたのをオカルト好きなら

「呪い」「祟り」というのだろう。

もしそれがあるならどうぞこの哀れな私を苦しめてほしい。

この地蔵がやったことならば受け入れよう。

こんな山奥でゴミを捨てられて閉じ込められていた地蔵が苦しめるなら不条理であっても許そう。

ゴミを捨てた人、ここを忘れた人ではなくただ扉を開けた私、

それだけでも悪いというならどうぞバチでもなんでも当てればいい。

だがその時は

これを忘れている『地元の当事者』も巻き込んでやろうよ。


どこかのバカが浪江を「町がなくなるのを聞きたい」と言った。

失礼だ。

なぜ?

このクソバカは魂がないからだ。

寄り添えないペラい心で近づくからだ。


私はこの町にまったく縁がないけど寄り添おうとした。

そして村十分にあった。

それでもまだこの町に来る。


自分の人生めちゃくちゃにしておいてのうのうとしている人間が吐いた空気を吸う可能性があるのにそれでも私は来る。


それでもなお見ることでやっと、やっと5mmくらい発言権が出るんじゃないか?

ただ飲み屋に来ただけのボケが消える発言など厚かましい。


もし地蔵さんが祟るなら。

それでいい。

苦痛の果てがわかるなら付き合おうよ。

そこまで覚悟してほしい。

町を捨てる人も、朽ち果てているのをおろおろしているだけの住人も、

面白半分で来るバカも。


雪が溶けて、半袖で歩ける気温になったらここの掃除をしようと思う。

もちろん、モノを動かすことはしない。

ただこのポリタンクとかを取り除くだけだけど。

あとは軽く掃き掃除でもするくらいだけど。

この地蔵さんにまったく関わりないけど。

みてしまったからな。


そこまでやるから私は書いているのだがね。

まあ伝わらないさ。

さようなら。

かわいそうなら哀れみを。

同情ならもっと早くするべきだった。

手遅れに差し伸べる手。

その手を出さないなら黙っているべきだった。

なまじ生きてなまじ人をイジメたり人生破壊するようなことをするから

そういう人間に住まわれてしまうこの町に同情する。

わたしがどこにも属さず誰とも群れないでやること。

それは独りで耐えた痛みとか辛さは共有なんか無理だから。

かわいそうに。

かわいそうにな。


投げ銭を旅費にして旅をしてレポートしたり、リクエストを受け付けて作曲をしたりしています。