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生きてるって、レアだなあ。

実家へ帰省していて、今日は父と墓参りへ行った。まだ台風の影響で風が強く、お寺にもお墓にもひと気がない。いつもなら本堂の近くのテントでお線香や仏花を売っているのにそれもなく、不気味なほどがらんとしていた。風だけがぬるく吹きつける。

お水を桶に汲んでお墓へ向かうと、墓場はあちこちに飾られた枯れかけの仏花があざやかで、逆に墓石ばかりの空間の静かさと色の重さを際立たせていた。

「おじいちゃん、おばあちゃん、来たよ」
「やっぱりもう兄弟みんな来た後だから、お墓はきれいだね」

墓石に水をかけて、手を合わせる。お線香はお寺で買うつもりだったから、無い。申し訳ないけど、その代わり、また近いうちに来ようと父と決めた。

墓石に水をかけて、先にお寺の方へ向かって歩き出したせっかちな父の後ろ姿をぼうっと見た。墓場にはわたしと父だけ。無数の墓石、その下にはそれぞれ何人もの死者が眠っている。そんなに大きな墓場でも無いから、おそらく数百人。数百人対、わたしたち親子ふたり。数で言えば、生きている方がレアだ。

いつも、生きているヒトがいっぱいの場所にいるからわからなくなるけど、死んでいるヒトの数のほうが、生きているヒトの数よりも多い。やっぱり、生きているのはレアだ。すごいことだなあ。

「早く、置いてくよ」

父が振り返る。このひとも、いま還暦で生きている、レアなひとだ。せっかちですぐ怒鳴り、それでいておちゃらける、生きてる人間。あごから喉への皮膚が加齢でたるみはじめている。すこしずつ、死に近づいている。わたしももちろん同じだ。悲観するわけではなく、静かにそう実感できたような気がした。

このお墓にはずっと幼いころから来ている。きっと自力で立ち上がれないくらい幼いときから、抱えられて来ていただろう。歩くことに必死で、ゴツゴツした石で組んである階段を登るのも一苦労な年頃もあった。そのころの若い30代の父は、どんなだっただろう。あまり思い出せない。それなのに、老いた変化には会うたび気づく。

わたしのように幼いころが父にもあり、その父を産んだ祖父母は、土の下に眠っている。彼らは戦争も知っている世代を生き抜き、父につながって、わたしがいる。そのずっと前も、お墓はなくてもつながっている。先祖に感謝してお参りするって、大事だよなあ。

パッと思考が飛ぶ。これだけヒトが死に続けているのに、よく墓地だらけにならないものだなあと、なんの墓事情も知らぬまま、またぼうっと思った。

「いつまでやってんの」
「今行くよ」

生きていたいとか、死ぬのが怖いとか、そう言うことは置いといて。生きてるって、レアだなあ。

風はまだ、禍々しいほど曇り空へ吹きつけていた。

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