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泣いてしまうほど会いたいひと。

すごく会いたいひとたちがいる。

全体的に曖昧な記憶なんだけど。たぶん小学校2〜3年生のときに、ちゃんと出会ったのだと思う。

友だちの家から帰る途中にバッタリ会った、同じ小学校の同学年の男の子のお母さん。「うち近くだから、寄っていきな」と誘われてお茶した。そのおばちゃんから「今度、書道教室をうちのおじちゃんがやるの」といった話があったような、なかったような。

字を書くのはすきだった。なんだか忘れたけど、小学校一年生のときに鉛筆で書いた字を表彰されたことがあった。みなとみらいのどこかに展示されたのを家族で見に行った記憶がある。字を綺麗にかけたらいいなあ。あこがれのように思っていた。だからすぐに「やりたい」と言ったような気がする。そのあと、母親を通してだったか、正式にお誘いがあって、通うことになった。

場所は、おじちゃんおばちゃんの家。そこの家の三人の兄妹や、同じ小学校の子たち何人かと一緒に、書道をはじめた。山の上の見晴らしのいい場所に建ったアパートは、決して教室をするほど広い訳ではなかった。そこに机を並べて、みんなで正座して書いて、よく書けたものを壁に張り出す。

「家」と「書道教室」が混じり合っていた。みんなが筆を洗う洗面器も真っ黒だった。そんなことは大したことないみたいに、おじちゃんもおばちゃんも、いつも楽しそうだった。

月謝は、すごく安かった。明らかにお金のためにやっているのではなかった。半紙代とかくらいにしかならない値段。毎週通っているのに、本当に安かった。

おじちゃんはとにかくやさしく、明るくて、会ったその日から、たくさん褒めてくれた。
「おお! 真希! お前、小三で自分の名前、フルネーム漢字で書けるのか! すごいなあ!」
そう言って全力で褒めてくれた。おばちゃんがあとから「うちのおじちゃん、真希は名前がもう漢字で書けるって、何度も話してて、すごくうれしそうだったよ」と教えてくれた。こんなに褒めてもらえることなんてなくて、うれしくて仕方なかった。

母は成績表とかを持っていってもリアクションは薄くて「できて当たり前」といった感じだったし、父はお調子者のわりにあまり褒める人じゃない。おじちゃんの言葉は、新鮮で、くすぐったくて、いつまでもわたしの胸のなかできらきらしていた。

おじちゃんは、甘いだけじゃなかった。ダメなものはダメと言ってくれた。でも、そこにもぜんぶ、愛情があった。
「あー、この字はいいんだけど、こっちの字がなあ。惜しいなあ」
「もうこの字じゃダメだと思って、さいごに小筆で書く名前、手を抜いたろ?この字、よかったのに。いいのにもったいないぞ」
やる気がなくなる、ということがない。

いちばん好きだったのは、一緒に書くこと。

「筆の弾力で書くんだ」
「うん」
「二度書きはダメだぞ、見たらわかるんだ」
「わかった」

後ろに座ったおじちゃんがわたしの幼い手のうえから筆を持って、字を書く。お手本がからだに染み込んでいく。弾むように、流れるように、筆が進む。魔法使いになれたような気分になって、魔法の余韻が消えないうちにとじぶんでなんども書いてみる。そんな時間が楽しかった。

そのうちだんだん、半分おじちゃんおばちゃん家の子、みたいになっていった。よく遊んでもらったし、おじちゃんたち家族に混じって休日に車で一緒に出かけることもあったし。おばちゃんが竹刀でピシッと床を叩いて、じぶんの家の子を追いかけてるのもふつうに見てたし。たしか、玄関のピンポンをしなくてもドアを開けて家にお邪魔していた気がする。それかドアが最初から開いてた。

いまでも覚えてる日がある。その日もピンポンを押さずに家に入っていったら、おじちゃんがナポリタンかなんかを食べながらテレビ見ていた。おばちゃんも、そこの家の子もいなくて、おじちゃんひとりだった。

「ねえねえ」
「んー」

まあ、食べてるし、いっか。わたしはおじちゃんの背後のソファに座った。一緒になってテレビを見てたら、しばらくして、おじちゃんが振り返る。

「なんだ、うちの子の誰かかと思った! 真希か!ごめんごめん」
「ちがうよー、ちゃんと話しかけたよー」
「いやー、わかんなかった! 飯食ったら、習字やろう!」

ふつうに家族のように扱ってくれることが、くすぐったくて。あたたかかった。もう、じぶんの家はそのころにはめちゃくちゃだったから。

毎日のように両親は言い争っていたし暴力もあったし、母にはめんどくさい電話応対を代わりにさせられるし、手のひらを返すひとが次から次へと昼ドラのように現れるし、ちっとも安心できる場所じゃなくなっていた。

おじちゃんとおばちゃんは心配してくれたけど、いつも明るかった。母が家を出ていったあとも、いつも気にかけてくれた。わたしも、大丈夫だと思ってほしくて、そうふるまった。だって、書道は楽しい。

わざと鼻の頭に墨汁をつけたりして、ふざけていた。そのくらい、わたしはかまってもらいたくて、でも誰にも素直に言えなくて、飢えていたんだと思う。

帰りが遅くなると、わざわざおばちゃんが車で家まで送ってくれることもあった。

「みかんあげるよ、持って帰りな。もう暗いから、車で送っていってあげる」
「おばちゃん、ありがとう」
「夜ごはんはどうするの?」
「これからごはん炊いて、お味噌汁だけつくって、お父さんが帰ってきたら一緒におかず作るよ」
「真希はえらいね」

いつだって褒めてくれた。家に帰るほうが、切ないときさえあった。

別れは突然だった。

「おれ、転勤になったんだ」

正座して筆を動かしているときに、なんでもないような調子で言われる。わたしは、頭が真っ白になった。静かにぽろぽろ涙があふれて、「泣くなよ」とおじちゃんが隣に座って笑いながら肩を抱いてくれても、止まらなかった。

人前で泣いたりするのが、大嫌いな子どもだったのに。

おじちゃんの家に通っていた子どもたちには、近くの書道教室を紹介するという。わたしは嫌がった。おじちゃんは、わがままを許してくれた。

おじちゃんは引っ越した後も手本を郵送してくれて、それを見て書き、おじちゃんへ送る。そうして書道を続けた。おじちゃんは、わたしが書いた書が届くと、電話して褒めてくれた。

書道もいちばん上の段まで取ってしまって、連絡を取ることもなくなり、わたしも引っ越しをしてしまったせいで連絡先も覚えていない。

会ってお礼を言いたいのになあ。

最近、とくにそう思う。さみしくて仕方がない子どもを、扱いにくいひねくれた子どもを、やさしく包み込んでくれたひとたち。そういうひとたちのおかげで、わたしは荒み切らず、なんとか大人になって、こうして生きている。じぶんの命が、かけがえのないものだと、あらためて思える。

どうか近いうち、会えますように。

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