真名指されざる万引き家族と、知恵の樹の実のポップコーン

下記、映画「万引き家族」の内容に関する記述を含みます。

貧困の映画を出来たばかりの日比谷ミッドタウンでみるの、本当はちょっといまいちかなって思ったけど、結局私はオレンジジュースを飲んでポップコーンを口にしながら席にかけていて、半ばまでみて、これもひとつの正解だったんだってわかった。

東京じゃ、万引き家族は、TOHOシネマとバルト9とイオンシネマと、としまえんぐらいでしかやってないのは、むしろ静かな挑発の作戦にすらみえる。

まなざす。

妖怪の本当の名前を当てることでそれを退散させる、あるいは、自分の本当の名前を知られてしまうことで魔物に魂を連れていかれてしまう、と言うのは古今東西に口伝えされて栞に閉じられる、よく知られた寓話のパターンのひとつだけど、まなざすと言うのは、「真名を指す」からきていて、「本質を見抜く」の意があるのだと古典の授業で、ーーそうじゃないならたぶん、京極夏彦と平山夢明が昔やってた東京ガベージコレクションってラジオで聞いた。
取り調べは、刑事が彼らに本当の名前を伝えることから始まってるのに、涼しい映画館で見ていた私たちは知っていた、ある側面に至らなかった。世の中にとって本当だったその名前は、彼らにとってはほとんど本当じゃないってこと。

構成は巧みで、映画を見る前から私たちは誤った真名指しに組み込まれている。「1円もやし」と、「淫乱キャバ嬢」と、「狼少年」は、「万引き家族」と、全部言葉の作り方とまつわる物語の排除の仕方がよく似ている。すごく悪い面を見ると、本性だとかいってそのことを重要に特徴付けようとする。私たちが物語のすべてを握れて重さを計れるみたい。

知性、即ち、無知の知で、それは他の全ての知の価値を超越できるというのは、ある種明らかな完成された答えのかたちに見えて、--一方それを濫用するのはとても寒々しくてそこにこそ精神の清廉の秘密があるようにすら思うけど--都市の無人島に運ばれるのに何か一つしか選べないのなら、今日はそれにしようかと思わない日もないこともない。
あの日知恵の樹の果実を食べて忘れてしまったことはきっとたくさんあるけど、飽食の南風の中で、論理を耕し、修辞の水をやった。過ちを継いだ、それでいてむしろ肉体に近い畏れの味を手に入れた。

直感が高度な文脈を以て描かれる。
そのことで以て、今、物語を越えて豊かさと正義と教養によって失われた実が培われている。劇場の箱庭の中で。

#映画
#是枝裕和
#万引き家族
#コンテンツ会議

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Ai Matama

映画のこと

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