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倒懸

私はことなさんと違って友達が1人もいないので私の方が不幸です。

というマシュマロへの回答を聞いていて,あゝ彼女は特別であるのだと再認識させられた.それと同時に彼女が特別で無くなってから初めて彼女のことを知ることができるのだろうと感じた.
私には彼女と会う手段なんてものは無いし,何よりも人と対面することを嫌うのだから彼女を知ることなんて出来ないが,彼女が活動を続けているよりはまだ可能性はある.
初鹿野ことなでインターネットを最後にすると言った彼女であるが,その点では楽観視しても良いだろう.

引用元↓

どうやら私には物語性が必要らしい。

このマシュマロは初鹿野ことなへ私がおくったものだ。
このように、私の書いた文が私の知らないところで批評され、また知らない誰かによって肉付けされていくと思うと、むず痒く、嬉しい、悪くない気持ちになる。
この回答で、私もまた彼女を特別だと思った一人だ。薄いベールが彼女の全身を覆っているような、そんな気がした。

「普段から文章を公開しているじゃねえか!」というのはその通りなんだけど、いや、なんというか、私が彼女に送ったマシュマロは誰でもない彼女に宛てたもので、もちろんマシュマロが不特定多数の目に晒されることは知っているのだけれど、とにかく、同じような考えの人がいて嬉しいのだ。

このマシュマロを送った理由だけど、私は友達がいないことを自己の確立と捉え、苦悩することがある。
だけど、それが私と、その他不特定多数の違いだと感じ、良く言えば「個性」だと捉えることが心地いいのだ。
前回の記事なんてその最たる例だ。

↑前回の記事。
また言葉の刃を自分に向けることによる自傷をすると思うけどいつものことだから気にしないでね。あまり人に見せたくない文だけど自分の中では珍しく気に入っています。
マゾヒストだから自傷が気持ちいいんだよ。

この話には続きがあって、彼女のツイキャスで「友達の価値」の話題になった。そこで私が「自分に合わない人とは距離を置いた。その結果、友達がいなくなった。」と言ったことがある。彼女は「ならいいんじゃない?」と軽い返答をした。たったそれだけだけど、肯定された高揚感があり、人と仲良く出来ない自分が少しだけ愛おしく感じた。
そこからかな。孤独を愛するようになったのは。

彼女が引退を発表した時、もう二度と公開されないマシュマロに、「あなたに影響されたよ。好きな本も音楽も生き様も。」という旨を送信しておいた。

例えば、彼女に出会わなければ米澤穂信や中村文則の作品の魅力に出会わなかったと思うし、趣味の深夜散歩もしなかったと思う。部屋を散らかすようになったことや、このように自分の考えを文字で発信するようになったのもそう。
そもそも自分を肯定できなかった可能性さえあるのだ。私は彼女になりたかったのかもしれない。

その日は眠れなかった。人生の師の足跡を追いかけていた。

朝が来ると会社に行く気が起きず、有休をとった。新入社員のくせにもう5回も有休を取っているし、その件で後ろ指を指されているのは知っているが、どうでもよかった。

一人になりたくて、とにかく高い場所へ行きたくて、高いところからつまらない世界を見下して吐き捨てたくて山へ行った。
くしゃくしゃの紙幣をケースに挟んだスマホと、彼女が好きな本をそれぞれ左右のポケットに突っ込んで、それだけの荷物で飛び出した。この最小限の荷物で出かけるスタイルも彼女に倣ったものだ。
人生に物語性を与えてくれた。


皿倉山へ行った。「恋人の聖地」だの、「100億ドルの夜景」だの、しゃらくさい名前が付いているためあまり好きではなかったが、平日の昼間で誰もいないから関係ない。
色鮮やかなチョウやクモやトンボが私を出迎えてくれたため、孤独感は感じなかった。
とても美しい。無宗教の私が思い描いている極楽浄土ってこんな感じだ。


しばらく使われておらず、手入れもされていないステージの客席に腰かけた。人の記憶を辿ろうとしたが、虫の息にかき消された。


ふと、本来の目的を思い出した。

世界を見下すのに適切な、断崖絶壁の岩に腰かけた。常に革靴を履いているのも彼女の影響なんだけど、そのような思い出に耽る余裕はない。
ここで吐き捨ててやろう。持ってきた本をポケットから取り出した。

中村文則の『何もかも憂鬱な夜に』

この本に限らず、中村文則はふとした衝動で人を殺したり、自殺したり、強姦や暴言を吐く人物が多いように思う。

物語でない人生は必要ない。そんな考えが頭によぎった。
もし、私が衝動で飛び降りたらどうなるのだろう。

正気に返ったような気がする。まだ飛び降りたくは無かった。この場所でこの本を読むのは危険だと感じ、同時に世界を見下そうと行動している自分がしおらしくなった。
前回の記事でまだ死なないと明言してしまったのだ。

この本は「誰かに自分を重ね、その人になりたい。」という意味を持っている。今の私だ。彼女と私を重ねている状況に、この本は重なりすぎたのだ。このままでは危ない。


だから、安全で綺麗な場所を見つけ、今度こそ腰をかけて読了した。

この本ではバッハの『目覚めよと叫ぶ声が聞こえ』を取り上げて、
「いろいろな人間の人生の後ろで、この曲はいつも流れているような、そんな感じがする。」
と綴られていた。

私も好きなカンタータだが、また違った視点で、でも確かにそうだと思い、周囲に人が居ないのを何度も確認してから携帯でその曲を流した。

なにをしているのか分からなくなった。





曲の荘厳さとか、本のメッセージ性とか、汚いと思っていた世界が美しかったこととか、憧れの人が居なくなった虚無感とか、死を恐れてしまったこととか、孤独に対する自分の考え方とか、揺れ動く様々な感情が一気に押し寄せてきて、とにかく、よくわからなくなって、

晴れているのに目元が濡れていた。


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