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[君たちは] ペシミストが反出生主義について思うこと [どう生きんの]

ずっと私の中にうっすらとあったものがようやく言語化できそうなので拙稿ながらそのようにします。
私の中では珍しく、多くの目に触れたいような記事になる予定です。





私が思う反出生主義の歴史


出生が罪だと主張する反出生主義が細々と認知され始めたのは、2015 〜 2017年頃からだったと思う。

2006年出版の本だが、10年後になぜかこの強烈なタイトルは匿名掲示板で話題になり、私もその議論に参加していた記憶がうっすらとある。しかし、この本は正直言って難しい。高校生の私にとって、筆者の主張は1割も理解できなかったと思う。

これを皮切りに反出生主義の紀聞が頻繁に私の目に入るようになった。


この本も難しくはあったが、上の本と比べて比較的分かりやすく、ようやく私もある程度の主張を理解することができた。
幸福と不幸、生と死は対義語ではなく、切り離して考えるべきだという一見突拍子もない主張が理解できた。



同年、ミュウツーの逆襲がリメイクされた。
反出世主義的な発言がミームとなっているが、この発言の真意は逆襲(復讐)に則ったもので、道徳を重んじる反出生主義者からは賛否両論だったのを覚えている。




2021年には「ただしい人類滅亡計画」という、いかにも中学生が好きそうなタイトルの本が刊行された。
内容も中学生から理解できるような言い回しが使われており、出生主義と反出生主義に分かれてディベートが進行するといったストーリーだ。読んでいて疑問に思ったことを登場人物がそのまま反論してくれるから気持ちいい。

この本の筆者はYoutuberをしているインフルエンサーだったことも起因し、反出生主義が爆発的に広まった。


一方で反対意見も多くあった。

明石家さんまの映画「漁港の肉子ちゃん」のプロモーションの一環として、ツイッターで「#みんな望まれて生まれてきたんやで」というハッシュタグがトレンド入りした。
すると、「私は望まれて生まれてない!」という主張をする人が現れた。さらに「反出生主義の人は捻くれている」と言う人も現れ、対立し炎上した。

良い意味でも悪い意味でも反出生主義が世に浸透した2021年は変遷の年といえるだろう。



2023年には「君たちはどう生きるか」が公開され、大ヒットを記録し、現在進行形で社会現象となっている。
この原作が公開された2018年も、今ほどではなかったが「君たちはどう生きるか」が大ベストセラーを記録し、それに反出生主義者が反応して「生きることを前提とするな」という意見が出ていたのも覚えている。

だから今回も出生主義者と反出生主義者との対立が見られるのではないかと胸を躍らせていたが、どうやら世間の関心は「宮崎駿が映画を作った」というところにあるらしく、現時点でそれらしい議論を見かけることはできなかった。
反出生主義が下火になっているのか?

映画や原作の所感は私の技量不足により未だに言語化できていないため内容については触れない。というか両者でメッセージが食い違っているような。作者の内面に張っている蜘蛛の巣がカオスに描かれている点では共通しているだろうけど。


今までの話を時系列にまとめると、

2017年 生まれてこない方が良かった-存在してしまうことの害悪 話題
    反出生主義が世に出始める

2018年 君たちはどう生きるか 刊行 
    ベストセラーを記録 逆張りで反出生主義が世に広まった

2019年 現代思想 反出生主義を考える 刊行
    ミュウツーの逆襲 evolution 映画公開
    私が反出生主義を理解する

2021年 ただしい人類滅亡計画 刊行 
    漁港の肉子ちゃん 映画公開 炎上
    反出生主義が爆発的に広まる

2023年 君たちはどう生きるか 映画公開
    社会現象を起こすが、反出生主義は下火か?

となる。繰り返すが、これは私が観測した世界での歴史であり様々なバイアスを否定できないしこれ以外にも無数の出来事があった。反出生主義という言葉自体何年も前からあるものだ。
振り返ると反出生主義はインフルエンサーが広めなければここまで大きくならなかったと思う。




自分の主義


私はペシミスト(悲観主義者)であり、反出生主義者ではない。
この考え方は、「私は今までの人生がずっと不幸だった。だからこれからもずっと不幸なんだ」というもの。
「生まれるべきでなかった」という面では私も反出生主義に片足を突っ込んでいると言えなくないが、両者を比較して決定的に異なる点がある。




悲観主義と反出生主義の対立

両者の違いを議論するために、持論を少し述べたい。
ほとんどの主義は「人に押し付けるべき主義」と、「自己で完結する主義」の二種類に分類されると思っている。

反出生主義は間違いなく前者だろう。彼らはこの世界の不幸を取り除くために出生を否定する。不幸は絶対にこの世から消さなければならないものと捉え、人類、または全ての生命の滅亡を願うというものだからだ。

菜食主義者もそうだろう。私も肉を食べているときに知り合いの菜食主義者に責められたことがある。
彼らは命を絶対重視するという価値観を持っており、犠牲を増やさないために周囲の行動を制限する。反出生主義を理解した私なら彼らの主張も理解することは容易かった。命の価値感をひっくり返したものだったから。
なお、反出生主義も菜食主義も理解しただけで共感はしていない。「人に押し付けるべき主義」はその特性から嫌われやすいので断っておく。

悲観主義は「自己で完結する主義」だ。そのため悲観主義は、反出生主義よりも利己主義の方が似ているかもしれない。
利己主義者は自分が幸福であることを重視し、他人のことはどうでもいい。悲観主義は自己が不幸であることに価値を見出し、他人が幸福だったとしても(少しは嫉妬するが)自分の主義に影響しない。この点で似ている。

夏目漱石の「こころ」で、ほとんど対照的である先生とKがどこか似ていると思ったことはないだろうか。その自分なりの答えとして、利己主義である先生と最後まで悲観主義であったKは「あらゆる信念を自己の心で完結させている」という共通点があると考えた。
それらの主義を頭に入れて読み返すと、物語の利他生に心臓を抉られる。日本中で読まれている「こころ」の中に、まさか、私の求めていたものがあったのだ。

補足をすると、利己主義者の中でも「私だけが幸福だ、それ以外は不幸になれ」という人や、悲観主義者でも「私が不幸だから全員不幸になれ」という過激派はいる。
一方、この主義は観測結果から少数派でもある。そいつらの主張もまた、私の中で理解ができていない。
私の思考の源流である「こころ」も、別に過激派な主義を掲げてはいない。

以上の持論から、「漁港の肉子ちゃん」で意を唱えていた者の正体は反出生主義ではなく悲観主義だろうと思う。ツイートなんて全部独りよがりだと言われればそうですが…

普通、自分の主義と異なる主義を持つ者の意見は直感的に理解しづらいものだ。私も、上記に挙げた作品を一通り読み、ようやく反出生主義の論理が半分程度理解できたつもりだ。

だから、原理主義者が無宗教の人間と議論する際には神が存在するかどうかで必ず食い違うし、エゴイストとコミュニタリアンが議論する際には第三者の価値観で食い違う。そして、それらの価値観を一致させることは難しい。
基本的に主義が違う人間同士は分かり合えないのだ。




どう生きるか

ペシミストは人に主義を押し付けないが、そこにペシミストがいるだけで雰囲気が暗くなるらしい。「話しかけるなオーラ」とかいう出した覚えのないスピリチュアルなものによって私の存在は否定された。

一方で同胞(不幸な人間)を嗅ぎ分ける能力は高い。惨めであることを「良いこと」と評価し、「私の方が不幸」とその度量を競い合うこともある。ペシミスト同士で傷を抉り合うし、さらなる不幸を求めて行動する。
そんなことを生き甲斐にしている。

上に、「分かり合えない例」として原理主義と無宗教などの対立を挙げた。
悲観主義と反出生主義は一見主張が似ているように見えるが、これに当てはまるような対立した主義であるだろう。不幸の価値で食い違うからだ。


だから、不幸を絶対悪と捉えている反出生主義者なんかとは今後も絶対に分かり合えないだろう。

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