【書評】「中継のフィロソフィーとは。共にスポーツを幸せにする制作者の想い」(田中晃『準備せよ。 スポーツ中継のフィロソフィー』文藝春秋,2019)

はじめに

 この本を読んだきっかけは上の記事でした。それまで「ディレクターっていう役割があるらしい」くらいにしか思っていませんでしたが、「ディレクターは神様なんだ」と言い切る田中さんに惹きつけられて、すぐに購入しました。
 DAZNの登場やさまざまな解説者の台頭など、サッカー中継を取り巻く環境は目まぐるしく動いています。中継をありがたがるだけでなく、その中身を議論することが増えてきたように思います。そんな中で制作者側の思いを知れる数少ない本ですので、サッカー中継に不満を持っている方にはぜひ読んでいただきたいです。

目に見えない制作者の存在

当たり前のことですが、視聴者は制作者を選ぶことはできません。これは逆 に言えば、ある競技の放送権を獲得した放送局には、大きな責任が生じるということです。
(引用元:第1章,3項,1-2段落)

 スポーツ新聞は何社もあり、その特色に応じて選択することが可能です。一方で中継は基本的に一つしかなく、JリーグであればDAZN一択ですので、そもそも選ぶという意識を持っていません(最近は解説者を選ぶことが出てきました)。
 そのためか視聴者が制作者を意識する事は少ないのではないでしょうか。少なくとも私は「DAZNさん、この値段でJリーグを観せてくれてありがとう」としか思っていませんでした。水道電気に感謝するのと同じように。
 そんな私が一度だけ明確に意識したのが、昨年(2018年)のJ1リーグ第24節川崎VS.仙台の中継で、解説者の戸田さんが求めたリプレイを出してもらえずに残念がったシーンです。戸田さんと制作者の意図がすれ違いによって生じた出来事でした。

そして中継の中で「得点場面を振り返るのであれば憲剛の守備のところから見せて欲しい」と中継スタッフにお願いをしましたが、残念ながら彼の巧みな守備は映像として紹介される事はなくシュミット・ダニエルがロングキックした直前からの映像しか出てきませんでした。
(引用元:戸田和幸公式ブログ(2018)「先入観」<https://ameblo.jp/todakazuyuki/entry-12400623175.html>)

 不意にも意識させられた制作者に対して、当時の私は敵意を持ってしまいました。しかしこの本を読んだ後には、互いの「フィロソフィー」がぶつかってしまったのだと感じました。制作者側にも彼らなりのフィロソフィーがあったのだと知り反省しました。いまでは互いの信念を擦り合わせ、戸田さんはDAZNと共に長尺のマッチプレビューを作るに至っています。

全ては映せない

 「フィロソフィー」は本著の主題です。たとえば箱根駅伝の中継では毎年総合ディレクターの方が中継のフィロソフィーを明示するそうです。

1回目から続いていますが、全スタッフが「箱根駅伝放送手形」と書かれた冊子(中継マニュアル)を手に自分の持ち場に散ります。その冒頭に、毎年総合ディレクターは自分の言葉で、その年のフィロソフィーを書きます。
(引用元:第1章,10項,3段落)

 中継において当然ながらすべてを映すことはできませんので、取捨選択が必要になります。サッカー選手がピッチ内で瞬時に判断しているのと同時に、制作者も切り取る画の判断を下しているのです。
 その時に重要なのが判断基準で、それこそがフィロソフィーなのです。たとえば箱根駅伝であれば、選手へのヒアリングから「シード権」の重要性を知ったために、中継における優先度を高めたそうです。そうした何を中継すべきかを共有するためにフィロソフィーを掲げることが必要なのです。
 そしてフィロソフィーを持つためには誰よりもそのスポーツを知り、尊敬しなければなりません。田中さんは走幅跳担当のディレクターに対して、「この競技場の砂はどういう成分で、どこからとってきた砂なのか。そこまで言えるくらいになれ」と言ったそうです。それくらいスポーツを知って初めてフィロソフィーを持てるのかもしれません。

スポーツのための中継

今では多くのスポーツイベントが、テレビ局の都合や代理店の戦略、スポンサーの意向、メディアの影響などにより本来の形から変わってきているのは事実です。でも箱根駅伝の本質と歴史は、メディアや代理店、スポンサーが作ったものではない。これは、単なる関東大学レースではなく、〝個人のドラマ〟の集積なのです。だから、テレビ〝ごとき〟が箱根を変えてはならない。
(引用元:第1章,8項,4段落)

 日本テレビに所属していた田中さんが「テレビ〝 ごとき〟」と述べているのは意外でした。テレビほど強大な影響力にかかわっていると勘違いしそうですが、それでも謙虚でいれるのは箱根の魅力を目の当たりにしたからでしょうか。
 スタジアムに収まる人数には限りがあるので、これからも中継が無くなることはないでしょう。むしろグローバル化を目論むクラブもいる中では中継のプライオリティーは上がる一方でしょう。
 そこではどうしても資本の論理が邪魔するでしょう。グローバル化において避けて通れない問題です。その時に悪影響を最小限に抑えてくれるのがフィロソフィーだと思います。良心と言い換えてもいいです。これからの制作者は哲学や良心を持ってスポーツ中継に携わってほしいと願うと同時に、視聴者側も制作者をたまには意識して、時には批判を、時には賛辞を送る必要があるでしょう。共にスポーツを幸せにする仲間として

おわりに

 本書で提示されているフィロソフィーに共感できるかはわかりません。けれども中継においてスポーツへのリスペクト、そしてフィロソフィーを持つことの大切さはきっとわかります。スポーツ中継に不満のあるあなたにぜひ。


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