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「普通」という名の暴力と、ロングコートダディの『あくまで提案』

コントに「救い」はあるか?

「じゃあ、コントに救いはあると思う?」

去年の10月、『キングオブコント2022』の結果についてあれこれ話し合っていた時に友人から発せられたこの言葉を、半年以上経った今でも僕は折に触れて思い出す。

「(描かれた)人を見て笑うこと」
もしくは
「(描かれた)人を笑いの対象にすること」

そこに僕らが見出しているのは「救い」だろうか。
それとも「暴力」だろうか。

THE CONTE 2023(夏)が面白かった

7月29日にフジテレビにて放送された「THE CONTE」を観た。
なんだか今回の「THE CONTE」は面白い作品がとても多かった印象(前回がどんなだったかがそもそもよく思い出せないけれど)がある。
というか最近、僕自身が大学院周りのことで忙しくしていたせいで長らくコントに触れていなかったというのもあり、新鮮な気持ちで、すごく楽しく観ることができた。
ということで、まず一旦今回の「THE CONTE」で僕が特に面白いと感じた作品を幾つかあげてみよう。

『もしもピアノが弾けたなら』チョコレートプラネット

今回の番組でヘッドライナーを飾ったコント。
全く楽器を触ったことが無い初老の男が、「娘の結婚式でピアノを演奏してやりたい」との思いからピアノ教室を訪ねる。講師は男に「ドレミの歌」をレッスンしようとするが、男はドの位置も分からない。そこで講師は鍵盤にシールを貼って教えようとするが……というネタ。
「鍵盤にシールを貼ってドレミを覚える」という、誰もが一度は経験したが、誰もの記憶の奥底に眠っていた絶妙な「あるある」を取り上げ、軽やかに裏切っていくこのネタは、テン年代の坂元裕二脚本を思わせる楽しさがある(『カルテット』第一話の食卓シーンみたいな)。
ドにレモン、レにラーメン、ミに素麺…という「シールのずれ」という筋一本だけでここまで面白くなるのかと驚かされた。というか、毎週のように有吉の壁に出たりとテレビで観ない日がない彼らだから、「まぁ面白くなくてもしょうがないな、忙しいし…」と思っていた視聴者(というか僕)を圧倒的な面白さでねじ伏せてしまうネタだった。
僕がいちばん好きだったのは「温かい素麵のシール」があったシーン。

『千羽鶴』かが屋

入院している男子高校生の病室に級友が千羽鶴を持って訪ねてくるコント。
ベッドに腰掛ける入院着の男と、千羽鶴を持った学ランの男。
このルックだけで非常にワクワクさせられるが、一言目の完成度が高すぎて僕は思わず溜め息が出た。

「盲腸なのよ…」

この台詞で世界観が完成した、という感じがする。
またこのコントの主要なモチーフである「中古の千羽鶴」が、この二人のクラスメイトの背景にある「教室」を鮮明にしていく手付きは見事としか言いようがない。

「え、二千羽はめんどいってなった⁉」
→「折りたくない子がいっぱいのクラスに戻れるかなァ⁉」
→「俺のだと思ってた千羽鶴、目の前で全部開かれてんだぞ⁉」

この論理の展開が、「中古の千羽鶴」という知らない概念に丁寧にかつ面白く観客を誘導している。そして終始この二人に哀愁というかノスタルジックめいたものを感じ、共感を抱いてしまうのは、やはり二人の演技の上手さの所以だろう。
「巧い」の一言に尽きるこのコントである。

「普通」と「変」の対立が孕む暴力

と、ここまで二つ好きだったコントを挙げてみたが、表題にもしたロングコートダディの『あくまで提案』も含めて、今回僕が好きだったコントには共通する部分がある。それは、「『(強力な)普通』の不在」である。
例えば、今回のTHE CONTEで言うとジャルジャルやレインボーのネタは上記とは対照的であり、「普通」と「変」の強力な対立図式が存在している。

「普通」の代弁者としてのツッコミ

ツッコミは「普通」の立場に立ち、それに対してのイレギュラーな(「変」な)存在にツッコんだり困惑したりしながら笑いを誘うという図式になっている。もちろん上記の二組のネタは非常に面白かったのだけれど、心のどこかで笑いきれない感じがあくまで僕にはあった。
だって、この対立図式に自分を当てはめてみると、僕は「変」の立場に当たってしまうから。
いやまぁ、この図式を見出したのは他ならぬ僕なので、被害妄想でしかないと言われればそれまでなんだけど、特にレインボーのネタで池田が演じる佐伯が一人でブツブツと言いながら舞台上に登場し、観客は彼を見て笑っているのだけど、僕はそこで「あ…」という得も言われぬ感じがした。「観客」という「大きな普通」が佐伯というイレギュラーな存在を笑うという図式に、僕は少し暴力めいたものを感じてしまったのだ(いやまぁ、コント番組だから、「笑い」として提供されたものには笑いで反応するのが正しい反応なんだけれど…)。
もちろん、ジャンボが演じる田中という男は、最初は「終わったぁぁ!」や「(佐伯の特技が)キモすぎぃぃ!」と反応しているものの、中盤では段々と佐伯に愛着を抱くようになるという流れなのだけれど、そのキッカケも「実はめちゃめちゃ仕事ができるから」という、「社会に還元できる要素の発見」であるのには、少々首を捻りたくなる。
「普通でない」人間たちは、「普通」の人間たちより秀でた部分がなければ、認められることはないのだろうか?
だとしたら、こんなnoteを書くことしか能がない僕は「普通」の人々に認めてもらえないってことにならないか?
誰かの役に立たなければ認められないほど、社会は残酷なのだろうか?
(もちろん、コントとしては面白かったけれど)

「普通」を解体するロコディ『あくまで提案』

そんなことを考えながら、視聴を続けていくなかで、今回のTHE CONTEの中で一番好きなネタに出会った。
それがロングコートダディの『あくまで提案』だ。
動物園に来た主婦の二人。見慣れない動物の檻の前で「この動物の名前は何か?」という問答をするところからこのコントははじまる。

沖田(演:兎)「あれ名前なんやったかしら?あのモモンガじゃなくて…」
平野(演:堂前)「あれちゃうの、あの、ミーアキャットちゃうの?」
沖田「いや絶対ちゃうわよ

この、兎演じる沖田の一言をきっかけに、帰宅後(場面転換後)、平野が沖田に電話を掛け、平野は沖田に「ある提案」をする、というコントだ。

自然主義的演技と、随所に光る(謎の)文学性

このコントはぜひ読者諸氏に観て頂きたいので、詳細なネタバレは避けたいのだが、このコントに出てくる平野と沖田という二人の主婦、本当に普通なのだ。もちろんこの二人の「普通さ」(リアリティと言ってもいいが)は、兎と堂前の圧倒的な演技力に起因する。それは、実在の人間の特徴を切り取った「似顔絵」ではなく、現実そのものを切り取らんとする「自然主義絵画」のような風合いがある。まぁ一言で言えば、めっちゃリアル。
また、台詞も非常に巧みだ。文学性すら感じる。
前述の動物はオポッサムなのだが(このチョイス!)、普段からの沖田の棘のある言動に「心のコップが水面ピタピタ」になっていた平野は、今回のオポッサムの件でその心のコップの水が溢れてしまった、ということを沖田に告げた後の台詞が素晴らしい。

オポッサムはね、いま私のコップの中で水浴びをしているわ」

巧過ぎる!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

なんだこの台詞、どんな時に思いつくんだこんなの。過ごすぎる、惚れ惚れしちゃうよ。すごく面白いこと(心象風景)を言っているのに、なんだかとても情緒に溢れているのだ。オポッサムの水浴びなんて誰も見たことないし、そもそもほとんどの人がオポッサムを明確にイメージ出来ないでいるところに「水浴び」という具体的な行動を持ち込むことで、「モザイク」のままのオポッサムが水浴びをしているという映像が頭に浮かび、アニメ銀魂のワンシーンみたいで面白い。

「普通」を描き切ることで「普通」を解体する

あくまで「普通」の代名詞みたいな関西の主婦二人を題材にしながら、リアリティのある台詞のやりとりで「普通」を逸脱することなく内在する「変さ」を明らかにしていくこのネタは、徹底して「普通」を描ききっている。「普通」を高倍率なレンズでズームアップしていくことで、その枠と(数として得てしまった)暴力性の解体を試みているのだ。
それも、抜群に面白いやり方で。

「コント、そこに愛はあるんか?」

最初の問いに戻る。僕に「コントに救いはあると思う?」と聞いた友人に、僕は今なら「救いはある」と答えたい。ただし、「愛のあるコントならね」と注意書きをして。
愛のあるコント。ここで言う「愛」、それは、「普通」からはじき出されてしまった存在に対する「愛」である。寄り添う視点と言ってもいい。
考えてみれば、先述した『もしもピアノが弾けたなら』『千羽鶴』『あくまで提案』(最後のは変化球だが)の三作は、どちらも(思い切った言い方をすれば)弱者に寄り添う視線がある。
楽器が弾けない男と、妙な教え方をする講師。「中古の千羽鶴」を渡された男と、目の前で自分のだと思っていた千羽鶴が開かれた男。
この二者は、互いにどちらを否定することはなく、また「普通(強者)」と「変(弱者)」の対立図式が上手い具合に避けられている。
そして互いに「普通(強者)」の枠内にいながら、その脆弱性を明らかにし、「誰もが変である」という回答によって「普通」と「変」の対立する二項をイコールで結ぼうとする『あくまで提案』。

「笑い」は攻撃性の裏返しか?

以前、岡田斗司夫氏が「『笑い』は攻撃性の裏返しである」という主旨の発言をした動画を見た。
それもまた事実だろう。「変」を「普通」が笑う図式は未だに根強く存在しているのだし。
だが、その図式は緩やかに解体されつつあるのもまた事実だろう。「笑い」の本質が「攻撃性」であったとしても、舞台上で構築される世界には、弾き出された存在に寄り添う視線が、愛が、確かに存在している。
そしてその愛は、現実ではじき出されている(と感じている)「普通」に馴染めない僕たちにとっては、「救い」として確かに存在しているのだ。

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