MY FOOLISH HEART

ああ、雨が降ればいいのに——。

泣きすぎて涙が涸れた美沙都は、代わりに空が泣いてくれればいいのにと思う。

あの夜、どうしてあんなことになったのだろう。美味しいお酒と手作りの料理を前に、正義の誕生日を祝うはずだったのに。

考えながら、行きつけの喫茶店「フェルマータ」のドアを開くと、「いらっしゃいませ」の声が響く。大きくはないが、よく通るメゾソプラノだ。

「おはよう、ミツ子ママ」
「あら美沙都ちゃん、いらっしゃい。いつものでいい?」
「うん」

美沙都の「いつもの」は、モーニングセットに温かい紅茶だ。彼女は5つあるカウンター席の一番左に座り、右隣の椅子に荷物を置く。腰を下ろし、大きく溜め息を吐いた。

「どうかした?」
「……え?」
「なんか、疲れてるみたいだけど」
「うん、ちょっとね」

お茶を濁したが、美沙都を赤ちゃんの頃から知っているミツ子には嘘がつけない。でも、自分の色恋沙汰を話す気になれず、黙ったまま窓の外を眺める。厚い雲が空を覆っているが、まだ雨は降りだしていない。

あの日のことを、今一度想い返してみる。美沙都は休暇をとり、正義の自宅で晩餐の用意をしていた。きのこのリゾットにルッコラのサラダ、ミラノ風カツレツにティラミスと、得意のイタリアンにしてみた。なぜ得意かというと、ワーキングホリデーでホームステイ先のマンマから手ほどきを受けたからだ。それまで食にあまりこだわりがなかった美沙都だったが、イタリアに行って変わった。作るのはもちろん、会話を楽しみながら食事も楽しむイタリアのスタイルは大いに共感できるものであり、自分が家庭を築く際にも実践していこうと決めたのだ。

その日、ふたりは他愛のない会話と食事を続けていたが、ふいに正義が居住まいを正し、大切な話があると切り出した。

「美沙都、君と別れたいんだ」

付き合って5年、そろそろ結婚話が出てもいい頃だ。ケンカはしたことがない。なのに「別れたい」とはどういうことなのだろうか。

「どうして?私の何が気に入らないの?」
「美沙都が悪い訳じゃない。俺が美沙都に相応しい男だとは思えなくなったんだ……だから、別れてくれ」
「相応しくない?そんなことないわ。正義は真面目で優しいし、私のことをとても大切にしてくれてるじゃない」
「そんなことない」
「どうしたの?何があったの?」
「とにかく、俺は美沙都には相応しくない男なんだよ!」
「そんな……」

正義の語気の強さに驚いた美沙都の両眼に涙があふれたが、彼女は涙を拭おうとしなかった。

「……帰るね。私はもう用済みみたいだから」

美沙都は涙声でそう言い残して立ち上がり、荷物を持って玄関へ向かった。ドアを開けるとひどい雨だった。走り出した美沙都の荷物には折り畳み傘が入っていたが、さす気になれず、そのまま濡れて帰った。家に着いた時には、頬を濡らしているのが雨なのか涙なのかはもうわからなくなっていた。

あれは夢だったのだと美沙都は思いたかった。そう感じるほど、現実感がないのだ。記憶も曖昧で、ところどころ思い出せない箇所がある。どこをどう歩いて帰ったのだろう……。ああ、タクシーを拾ったんだった。道路が混んでいたので運賃は意外にかさみ、辛うじてお釣りがくるくらいの額を払ったっけ……。

「はい、モーニングセットと紅茶ね」

ミツ子がサーブしてくれたのは、全粒粉のトースト、ベーコン入りのスクランブルエッグにグリーンサラダ、フルーツヨーグルトと温かい紅茶だ。どこのモーニングもそうなのかもしれないが、ヘルシーなのが気に入っている。あの一件から食欲がなくなり、料理も全くしなくなった美沙都は、まともな食事をしなければと思って、ここに来たのだ。

「いただきます」

両手を合わせて、美沙都はサラダから手をつけた。いわゆる「ベジファースト」である。野菜を最初に食べることで、血糖値の急な上昇を防ぐというのだが、その知識を仕入れたのは雑誌でだったか、テレビでだったか、今では覚えていない。

なんとか全部食べ終え紅茶を啜っていると、ミツ子がこう言った。

「はい、スペシャルサービス。甘くない気分のときは、甘いもの食べて元気出すのよ、美沙都ちゃん」

ミツ子の温かな声と一緒に渡された袋には、フィナンシェやクッキー、ブラウニーなどの焼き菓子がたくさん入っていた。ミツ子の心遣いが嬉しくて、美沙都は笑みをこぼした。ここ1週間で彼女が心から笑ったのはこれが初めてだった。

ドアベルが鳴った。しかしミツ子は「いらっしゃいませ」と応じる代わりに、「おかえりなさい」と言った。美沙都が振り返ると、ミツ子の娘で美沙都の幼馴染み・陽子がダンボールを抱えて店内に入ってきた。

「美沙都、来てたんだ」
「久し振り。元気だった?」
「うん。あれ、痩せた?」
「うん、ちょっとね」

ダンボールをカウンターの中に置いたあと、陽子は厨房に消えた。美沙都の様子がいつもと違うのを感じた陽子だが、それ以上詮索しようとしなかった。こういうところはミツ子譲りなのだろう。

翌朝出社すると、同期のさくらにエレベーターで会った。さくらがこう切り出す。

「今日ランチ、どう?」
「いいけど、身体に優しいものがいいな」
「そっか……じゃあ清香のお粥がいいかも」
「そうね」
「じゃ、またあとで」

昼休み。中国茶寮の「清香」は中華粥に点心がつくランチセットが評判だ。窓際の席について、美沙都は中華粥の単品を、さくらはランチセットを頼んだ。ホール係が下がったあと、さくらが切り出す。

「そういえば正義さん、元気?」
「実は、『別れたい』って言われたの」
「そうなんだ、なんで?」
「自分は私に相応しい男だとは思えなくなったって言われたんだ……」
「どういうこと?」
「よくわからないの……何も訊かなかったし」
「そうなんだ……」

美沙都は窓の外を見やる。雨が降りそうで降らない、どんよりとした空模様。また「雨が降ればいいのに」と美沙都は願う。

さくらと別れたあと、正義に電話を掛けてみたが、「電波の届かないところにあるか、電源が入っていないため、掛かりません」と無機質な声が美沙都の耳に響いた。彼女は「そんなに私とコンタクトを取るのが嫌なの?」と心の中でつぶやいた。

   *

どしゃ降りの雨が窓を叩いている。正義はカーテンを締め切り、電気を点けずにベッドの上に仰向けになっている。もう何日、こうして過ごしてきただろうか。体調が悪いと、美沙都が正義の自宅に来てくれて、お粥やうどんなど、身体に優しいものを作ってくれていた。彼女は今、どこにいて何をしているのだろう。自分から別れを切り出しておきながら、なお美沙都のことを想っている自分に呆れ、正義は大きな溜め息をついた。ふと、昔の想い出がよみがえる。

「雨の日は気分が沈むから嫌だな」
「そう?私は雨の音を聴くのが好きだから、雨の日は嫌いじゃないの……変かな?」
「あんまりいないと思う。でも、好きな人の好きなものも、俺は好きになりたいな」
「そう……そう言ってくれると嬉しい」

正義と美沙都が付き合い始めた直後に交わした会話だ。美沙都と一緒にいる雨の日は穏やかで幸せな時間だったが、ひとりで聞く雨の音は忌々しい以外の何者でもない。雨音だけではなく、あらゆる物音が忌々しく感じられるほど、彼は疲弊していた。

「休職し始めてもう1ヶ月になるのか……」

正義はカレンダーを見てつぶやく。また雨の音だけが部屋を包み込んだ。本当に、何もかも忌々しい。

正義の休職のきっかけとなったのは、4月の人事異動で彼と同時に赴任してきた上司の態度だった。その上司は何かミスをすると同僚の前で怒鳴ったり、嫌味を言ったりと、何か気に入らないことがあると周りに当たり散らしていた。よくそのターゲットとなったのが正義だった。正義は初めてだらけの仕事に慣れるまでの辛抱だと思って毎日出勤していたが、食欲がなくなり、吐き気や頭痛、めまいなどの症状が出始めた。夜もよく眠れなくなり、かかりつけの内科に行くと、こう言われた。

「少し休養が必要だと思います。専門医を紹介するので、そちらにかかってください」

紹介された病院は精神科だった。

自分の仕事のことをいきいきと語る美沙都には、仕事のことや自分の体調のことは相談できなかった。もともと仕事のことは美沙都にはあまりしなかったし、心配させまいと思ってのことでもあった。美沙都が見えないところで薬を飲み、仕事に行ってないことは隠していた。仕事に行けないなんて、美沙都を支えるためにはあってはいけないことなのに……。

「今の俺じゃ、美沙都を守ってやれないよな……」

そんな自分に生きる価値なんてない。美沙都のことを思い出すたび、その考えに陥ってしまう。病気のせいだと言われても信じられず、ひたすら自分を責めてしまう正義だった。

   *

美沙都が職場から家に戻ると、宅配便の不在伝票がポストに入っていた。送り主は正義だった。翌日は仕事が休みだったので、お昼前の便で届けてもらえるように手配した。

美沙都がワーキングホリデーでイタリアにいたとき、正義は日本にいて、ふたりは手紙や贈り物を星の数ほどやりとりした。美沙都はさみしさを埋めるように長い手紙を書いては郵便局に赴き、封筒を量ってもらってから投函していた。正義も筆まめで、濃やかな文字で美沙都への愛情を綴っていた。

ふと思い立ち、クローゼットの中にしまってある手紙の束を改める。正義からの手紙はすべてとってあって、美沙都が送った手紙もコピーをとってある。一番古い正義からの手紙を読み返すと、こう書いてあった。

「イタリアには慣れましたか?イタリア人は明るい人が多いと言うけど、どうですか?世界一美人な美沙都が他の誰かに取られないか心配で、毎日気が気でないよ。あまり素敵な笑顔を振りまくなよ。君は俺だけに微笑んでくれればいいんだから……」

「美沙都に俺は相応しくない」とはどういうことなのか。正義の律儀な性格から、届く荷物の中に手紙が入っていて、それに何か書いてあるだろうと彼女は踏んだ。

明くる日。昼食を用意しようと思った矢先に荷物が届いた。急いで開けてみると、基礎化粧品や洗面道具などの生活用品から、美沙都が揃えた食器類など、彼女が正義の家に置いていたものが全て丁寧に梱包されて入っていた。プロの手かもしれない。しかしながら、彼女が期待していた正義からの手紙は入っていなかった。

「私も正義の私物、送ったほうがいいのかな……」

ひとり呟くが、誰も答えてはくれない。昼食を摂る気力を失った美沙都はソファに横になり、大きな溜め息をついた。

どうしたら正義の消息がつかめるだろうか。思いを巡らせて、美沙都は正義と彼女の共通の友人・夏子に連絡を取ってみた。夏子は正義と同期で、一時期同じ部署にいたこともある。

「美沙都、久し振りだね」
「うん……今、時間大丈夫?」
「大丈夫だよ」
「今、正義ってどうしてるか知ってる?」
「えっ?」
「しばらく連絡取れなくてね。夏子なら何か知ってるかと思って」
「そう……『美沙都には言わないでくれ』って言ってたから黙ってたんだけど、中山くん、休職してるよ」
「えっ……」
「もう1か月半くらいになると思う。事情はよく知らないけど……」

ということは、最後に会った日より前に休職し始めていることになる。どういう経緯で休職に至ったのだろうか。美沙都は異動について知らされていなかったので、休職の理由が仕事にあることに思い至らなかった。休職するということは、何かの病気なのだろうか。長期入院が必要?手術が必要?美沙都の不安はとどまるところを知らない。

正義が「別れたい」と言ったのだから、美沙都は彼の気持ちを尊重したいと思っていた。でも、このまま何も伝えられないのは悲しすぎる。そう思って、彼女は手紙を書くことを決めた。自室にある私物も送って、部屋にある正義との思い出がつまったものを少なくしよう……そうすれば気持ちの整理も少しはつくかも知れない。

「正義、今どこで何をしていますか?この手紙を読んでくれているということは、少しは私のことを気にしてくれているのでしょうか?」

そう書き出して、一息つく。そのあと、何と綴ればいいのだろうか。正義の仕事のこと。彼の今の体調のこと。今美沙都が抱えている彼への想い……訊きたいことがたくさんありすぎて、どこから、また何から書いていいのだろうかと悩んだ。とりあえず自分の気持ちを整理してみようと、美沙都はメモ帳を取り出した。

「あなたは他人に優しすぎるし、自分に厳しすぎると思う。もっと自分を大切にして欲しい」
「私も苦手なことだけど、もっと他人を頼っていいと思う。もちろん、私にも」
「もし本当に私と別れたいのなら、それでもいい。私は愛するあなたの決断に従うだけだから」

そんな言葉を綴ってみたが、どれも陳腐だ。どう書いたら正義の心に響くだろうか?数えきれないほどの書き直しを経て、美沙都は正義への手紙を書き終えた。物理的にも、心理的にも届くだろうか?届かなかったとしたら、もうコンタクトを取るのを諦めるしかない。

「月並みな表現だけど、何か私に出来ることがあったら、いつでも連絡下さい」

手紙はそう結んだ。正義は美沙都と別れたがっているが、彼女は自分から別れる気は全くない。彼がいつ帰ってきてもいいように、彼女はずっと待ち続けるつもりだ。「ドアは開けておくから」ーーそんな言葉が彼女の脳裏をよぎった。

それから1週間。返送されてこなかったし、受け取り拒否もされなかったようだ。物理的に届いてはいるのだろう。もうこれ以上は何も出来ない。もう正義への想いは絶ち切るしかないのだろうか。

   *

美沙都が落ち込んでようがいまいが、朝は来る。相変わらず食欲もないし、よく眠れない。仕事には行っているが、あまり集中できていない。ミスが増えたということはないのだが、これから大きなミスをおかしてしまうのではないかと不安になる。昼休みになって、携帯電話でメールをチェックしていると、夏子からメールが来ていた。

「中山くんのことで報告があります。電話をしたいので、出られそうな時間をメールしてくれるかな」

「電話で」ということは良い報告ではないのだろう。「夜8時以降なら大丈夫そう。電話、待ってるね」と返信して、携帯電話をバッグにしまった。昼食を摂る気がまたなくなったが、食べておかないと仕事に支障が出そうだ。そう思って、今日はひとりで清香に向かった。

昼休みが終わって自席に戻る前に、美沙都はグループリーダーの前川に声をかけた。

「今日は大事な用が出来たので、早めにあがらせてください」
「うん……どうした?」

何と答えればいいのか迷っていると、

「最近、あまり元気がないようだから、あがっていいよ。休むのも仕事のうちだからな」

お礼を伝え、自席に戻る。そういえば会議があったはずだ。スケジュールを確認すると、会議は2時からだった。集中しなきゃ、とポツンと呟いてパソコンに向かう。

仕事を終えて、家路につく。電車の中は満員というほどではないが、座れなかった。夕食は何か温かいものが良い気がしたので、スープ専門店で具だくさんのラタトゥイユを頼もうかと考える。でも全部食べられる気がしない。コンビニでカップの春雨スープを買うことに決めると、車内のアナウンスが流れる。最寄り駅まではあと3駅。

8時過ぎ、夏子から電話が掛かってきた。

「今日同期から連絡があったんだけど、中山くん、亡くなったって」
「亡くなった……どうして?」
「交通事故だって……運転中に、だったみたい」
「そう……私は正義がいない世界で生きていかないといけないのね」

彼女がつぶやくと同時に、パラパラという音が外から聞こえてきた。雨だ。美沙都の代わりに空が泣いてくれている。正義と一緒に聴く雨の音は美沙都の心を潤してくれたが、ひとりで聴く雨の音は孤独を増幅させる。正義との別れがこのような形になるとは思いもしなかった。後日正義の弔問に出向くのを決めて、美沙都はベッドに横たわった。

美沙都は自分の名前が呼ばれているのに気付いた。声の主は正義だ。しかしどこにも彼の姿は見えない。

「正義、どこにいるの?」
「ここだよ……」

美沙都は自分がそっと抱き締められているのを感じた。この気配は間違いなく正義のものだ。

「ずっと連絡せずにごめん……もう行かなきゃ」
「どこへ?」
「わからないけど、ここにはもういられないんだ……今までありがとう」

優しいキスを頬にされると、美沙都は目を覚ました。

「夢か……」

正義がこの世のどこにもいなくなったと知って初めての朝が来た。これからどうやって生きていこうか……相変わらず涙は出ない。

お気に召していただけましたか?いただいたサポートは、活力をチャージするためのお茶代になります。よろしければサポートお願い致します。