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名前にいて考える

自分の名前を認識するのはいつ頃だろう。

産まれて名前を付けられてから、最大限の愛おしさで名前を呼ぶ。

繰り返し呼ばれ続ける心地よい響きが自分の事だと気付く。

そして声がした方を見ようとする。

愛を感じて微笑んで手足を動かす。

するとさらなる愛しさと喜びを込めてまたその名前を呼ぶのだ。


そんな名前を捨てて50年もの間逃げおおせた老人が、命の限界が迫ってきた時に願ったのは本当の名前で最期を迎えたいということだった。

本当の名前で過ごしたのは20年。

違う名前で過ごした時間の半分にも遥かに及ばない。

それでも愛を目一杯感じて呼ばれた名前は素晴らしかったのか。

ちょっと理解しがたいのは私だけだろうか。

本当の名前で生きた最後の数日は幸せだったのだろうか。

それだけ変えた名前は肩の荷が重かったのだろうか。


名前を変える人は何も犯罪者ばかりではない。

証人保護プログラムで全てを変えて生きなければいけない人もいる。

苗字だけなら結婚したり養子になったり様々な理由で変わる。

私も苗字が変わったが、何も幸せではなく深刻な理由で変える人も少なくない。

名前を変えることを余儀なくされた人々は、やはり本来の名前で最期を迎えたいと思うのだろうか。


50年もの間違う名前で生きてきた老人は、本当の名前で生きた20年があまりにも幸せだったのか。

もう知ることは出来ないけれど、名前を変えた50年が辛いものだったとしたら、当時被害を受けた方々の溜飲は少しは下がるのだろうか。

名前の持つ重さを考えるこの数日である。

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