グルーミングと言葉の起源は自己同一化でつながるというお話。クリスマスに考えるまだ来ない富の未来の話。

 サルのグルーミングと社会脳というお話があるけれどそうなんだろうなぁとは思う。でも具体的にはどういうことなんだろう。サルは相手がどこを掻いてあげると気持ちよいのかわかっている感じがある。サルは自分自身の体のどこがかゆいのかわかるのは当たり前だ。それを相手に投影して自己同一化が出来ればグルーミングのスキルは向上するだろう。このことは特にサルのような順位のある場合では順位の上のサルの気持ちに自己同一化できるようになれば社会的な順位の関係はよりスムーズになっていくのかもしれない。こうして社会的な関係が順位の関心から広がってより一般的な関係へと進化していくのだろう。このことが言語の起源へとつながるという発想は直感的にわかる気がする。
 言語の世界になってしまうとこのような順位制からきている起源が忘れられてはじめから一般的な関係を表現できるものだと思ってしまう。ところが順位制を自己同一化して感じてしまうということは人間にとっても無意識的にあることでこれが人間の社会的な関係性のあり方を規定してしまうのかもしれない。何が言いたいのかというと、最近読んだ、あのブルシットジョブで話題になったデヴィッド・グレーバーの『官僚制のユートピア』に出てくる「解釈労働」が印象にのこったからだ。「想像力とか、世界を他者の観点からみる終わりのない努力という恒常的でたいてい繊細な努力を必要とする」といったことを「解釈労働」というのである。このとき、物理的危害を他者に与えると、順位制の世界での上位のサルの生活に自己同一化することの働きが起動して世界を上位者の観点からみることを内面化して自分自身から社会的な順位の関係をスムーズ忖度してしまうのだった。こういうことで社会のヒエラルキーはどんどん発展成長してより大きなものになっていく。
 
 社会的な順位の関係の上位にある者たちを恒常的に見せられているとそういう存在に自己同一化していく。それが平等主義的なことから始まっていく「能力主義」の成功者に自己同一化していくことで99パーセントの負ける人間たちは自分自身を自分自身で支配体制に迎合してしまう存在にしてしまうのであった。世界をそうした支配的な上位者の観点からみる終わりのない恒常的でたいてい繊細な努力をして自分自身を追い詰めることにつながる努力を自分自身でして行くのであった。上位者からの物理的危害を与えられることが反発とは真逆な従順さを導いてしまうのはサルからの根深さがあるのであった。グルーミングをさせてくださいって思ってしまうのだね。上位者に対する「思いやり」。日本には「思いやり予算」というようなものがあったのでした。

 世界には上位者たちがいて対立しています。彼らが争いを始めるとそれを見せられることになるのですが争いの場からかけ離れているところにいる人間たちには直截な物理的危害を自分たちの上位者からの与えられることはないので自己同一化していくことがうまく回っていかない。こういうことはいい機会になるのかもしれない。いろんな位置にいる人に自己同一化していくことことが出来ればかなり客観的な認識がみたいなことが感じることによって出来るようになるかもしれない。
 
 グルーミング起源の近くにある言葉からそれから自由になった言葉を使うこともできるだろう。表現はグルーミングのスキルと似ているのかもしれない。表現はただの個人から始まることもあってグルーミングのように直接な相手を持っていないこともある。たとえば、書くことで自分自身のことを限定されたところから解き放つことが出来ることもある。文字の働きのちからは文字の働きからさらに技術的に広がった表現の世界を可能にしていくからグルーミングの力をより広い対象たちへと広げてきことができるのなら「自己同一化」の別な可能性も生まれてくる。

 ある意味では人間の世界はグルーミングするしてもらうということと順位制と自己同一化とが相互作用する圧力からうまれてきた。心の中に他者が喜ぶグルーミングの仕方を、誰誰さんにはどうやってしたらいいか、それぞれ特定の他者を区別することが物理的危害を最小化することを可能にしてそれぞれをそれぞれに内面的に記憶することから心のなかの記憶は構造化して言語のようになり文法が生まれて文章のようになり文字のように記述されるようになってやがて外部化した。その場限りであったグルーミングのちからをこのテクノロジーは拡張して保存してため込んでさらに流通させることまで可能にしていくだろう。順位的暴力に無関係な好意的なグルーミングへの欲求もあるだろう。これもやはりサルからヒトへと継承されてヒトの進化の原動力になっただろう。そのことはだれでも感覚的には納得できるだろう。
 資本主義は人々に与えられる物理的危害を最小化することから始まる富の生成が起源になったのだろう。富を創りだすことと物理的危害を与えることとは関連がはじめからあるので物理的危害を与えることは富の蓄積の成長と関連して洗練されたデザインをもつようになりより効率的により強力になって直接的な暴力とは離れることが出来るようである。もしかして物理的危害を与えることが直接的に人命や生活のシステム破壊することことから離脱してより洗練されて感情に無意識的な恐怖心と不安を与えることへと進化していくならそういうことを最小化する向きへとテクノロジーも進化するだろう。問題は人間があまりによくできた生き物であることに尽きるのかもしれない。支配されるよりはるか前から支配されることを想定して支配されることを先回りしてやってしまう。このことは本来支配ということとは無関係であったのかもしれない。
 
 動物が道具を使用することを分析すると道具のシステムの階層があって、単に道具を直接的に使うのと道具と道具を関連させて使うことの階層性があることがわかる。かたい木の実を割るのに単に石を使うのと石を割るための台座を持って来てそこにおいてから石を割るといった二つの道具を使うサルがいる。サルはせいぜい二三段階で複雑さは終わりになる。しかしそういうことをヒトは際限なくしていく。しかしそれは直ちにできるようになったのではなくて道具を協力して使うことがあったからだろう。ふたりでうまく道具を使うには一方がもう一方の道具になるようにして互いの意思の疎通がなければならないから同じ目的を志向することをわかってもらって興味を持ってもらってやってもらうために相手に対して一段下がって尊重するという態度をうまく演じることが出来るようになっていくだろう。お互い一緒になって共通なことを志向して互いが互いの道具になって行為していくことが道具のシステムを進化させた。そこには複雑な言語の使用が可能になっていなければならなかっただろう。さらに相手に向けてかんじの良い身振りが出来ればさらにいい。道具のシステムと言語のシステムとはさらに身振りのシステムもともに共進化していったわけだ。まだここには直接的な支配ということはない。というかそれの前適応だった。

 支配が可能になって富が生成されるようになって資本主義が生まれる。富が物理的危害を与えるみたいな圧力になって経済を進めるのだけれど、物理的危害を与えることが直接的な圧力から離脱して間接化していくように富の圧力も直接性から離れていけるかもしれない。道具から道具が生まれるように富から富が生まれるのだけど富には道具ほど誰にでも開かれているということはまだない。富の強制的な支配力から富そのものを離脱させることが出来れば富を恣意的な特定な権力をもった人物の支配から自由になれば富の可能性は一気に拡張できるだろう。富は単なる物理的なものではなくてエントロピー変化みたいにただただ劣化していくというものとは違う。だから統計的なデータ解析から分析的に富の使用を考えるというのでは支配の構造を強化するだけで面白くないから退屈して頽廃してエントロピー変化に従って劣化してダメになっていく。富は生きものみたいだから富はその半分以上が可能性なので富が何をしたいのか富はなにが出来たら嬉しいのかを考える時が来ているのかもしれない。サルは上位者に自己同一化していくことでより良いグルーミングのスキルを発展させた。われわれ人間にとっての究極の上位者とは富のことだから富に自己同一化していくことが出来ればいいように思えるけどそれってどういうことなんだろう。支配より前に恐らく富があった。支配はサルでもあるからね。サルは富に自己同一化しない。富はかれらにとってバナナのような一瞬だけのものなのだからだろう。それに比べればわれわれの最も近い祖先は富に自己同一化が出来たのかもしれない。原始人が住んでいたと思われる洞窟の壁に美しい絵が描かれていたのだから。
 
 明日はクリスマス。クリスマスキャロルなんてお話がありましたね。忘れちゃったかな。検索してみましょう。

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