『高速を降りたら』というテレビドラマを見たら社会の現在がこの話とそんなに無関係ではない気がしました。。

テレビドラマを見ていると、どういう登場人物たちが出ているのかではなくてどういう登場人物が出ていないのかが気になることがあります。テレビドラマを見ていると登場人物の数がだんだん少なくなっている気がしますがこのドラマはどう考えたらいいんでしょう。
 三人―三人の組はあった方がいいのでしょう。一人ー一人ー一人の組でもいいのかもしれない。そうすると距離感が消えてしまうからこういうハナシにはならない。なら、こういうハナシってなんだ。ということになります。
 
 自分の属している組織というものが今はこういうことなのかということはないのだろうけれど(そうなら面白すぎて耐えられない)ドラマ的にはこういうことなのだとしておきたい。おとこたちは自分で自分のことを考えることができないというかしたくない。ところが、アクシデントみたいにこの三人が同じ空間に閉じ込められると、それぞれ何かしら演じることをすることに追い込まれる。女たちの三人姉妹はただ一緒にいるだけでちょうど座標系の中心を担っているだけで今回はあまり意味あることをしていない。中心にいるだけで十分だということなのか。
 おとこたちは男のメンツや男らしさというふりをするのだけれどそれは伝統芸みたいなもので代々続けていかなくてはならないと思っているのだけれどなかなかにきつい。配偶者の父親から要求されるみたいになっているのだけれど、それが可能なのは、受け渡すそれぞれにとっての年長者が座標系の中心にいてその周りが順々に人で埋められていてといった構造になっていなければならないが、そんな天皇ご一家じゃあるまいし無理だ。
 
 ここで気がついたのは母親がいないことだ。もしいたら、それは『東京物語』になってしまうのかもしれない。年老いた父親と母親の物語は、また別の機会にしましょうということの方がよさそうだ。笠智衆と原節子がいる映画だったね。そんなのいまどき無理に決まってんじゃん。
 『東京物語』がいくつかに分岐して、そして、なのか、どうしてか、いま現在に至る、それがこのお話の場所というか登場人物がいる、移動している空間、固定している空間、ということ?つまり順当に物事が進んでいたなら絶対にあるはずのないすきまみたいなもの。それこそが本当はあったらよいのになという空間なのでした。
 中心という絶対的な座標系はなくなってしまうその前に一瞬だけ姿をあらわす。空虚な場所に一瞬だけ人が集まれば何かが起こって終わらせられたらいいものが終わる。おかしなことだがこれで伝統は継承?された???
 そういえばこどもの男の子もいたね。男らしさも男のメンツもあいかわらずあって意味などだれも本気にしないからそういうふりをする。女らしさも似たようなものだ。笠智衆も原節子もいるはずないし落ち着いてきれいで安定したカメラアングルなんて望みようもない。世俗的で散文的で詩的なきらめきとか関係ないけどその代わりにあるものがちゃんとあるのでそれがいいんだろうなということであった。なんというのか、否定的なこと言っても、面白いならいいけどそうでもないし、ならばそういう否定的なものをまた否定して、まあいいかてきなところにそういう態度に着地する。一応は成功している。

 このドラマの登場人物たちは活力に満ちているというのとまさに正反対でこれからどんどん衰退していくこの国に生きていることがどういうことなのかを、いきなり明日はお終いというほどではなくて衰退化に結構抵抗していける知恵をそれなりに持っていて、ダメになるのを回避する知恵については信頼してよいというか。
 死んでいく父親はすでにぼけていて老人施設に入っている感じだしその存在は想い出でしかない。忘れかけてもいて、何とか記憶に引っかかるエピソードですらあやうい。中心ということがなくなってきて、場所も記憶も薄れていくそういう社会で生きていくことはそう悪いことでもなくておかしなプレッシャーが力をふるっているのでもないしまぁ普通の人間なら自分でそういう人間だと思ってるならそう世間のえらいふうな人が言いたがるほどひどくはない世の中だと小さな声の主張がきけた気がしてよいドラマであったと思います。
 
三人に三人というのがよいのかもしれませんね。孤独だ孤立だというけれど結構人はたくさんいるし何とかなるんじゃないかなでいずれはダメになるけどその時はその時で先送りでいいのだと思っています。
 こどもは一人しか出てこない。そういうものだとは思うので、こどもは思いっきり甘やかされてわがまま放題で言いたいことしか言わなくて思いっきり大きい声で騒げとは思うけどそんなことこどもたちは思いもしないでしょう。
 いずれにしても静かな世の中になっていくのかもしれません。高速を降りたら、その先はそういうところでしょう。ともあれ父系的な社会は次第に終わって少しずつでも女性の地位は上がるでしょう。すくないこどもによそから来た人たちがそのうち合流することになるのでしょうか。それはわかりません。人と人が話す機会はあまりないのかもしれません。たまに高速に乗るようなことがあればその時自分を世の中の外に連れ出してくれるかもしれません。こういう余白というのかはみ出した時間というのか場所というのかそういうところで展開するテレビドラマがたまにあってそれがいい感じがします。こういうのが今の豊かさということならいいのだけれど。誰にでもこういう時間や場所が訪れてくれればいいですね。

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