『ゴドーを待ちながら』を演じたとき最後になって感動したみたいなことを柄本明がテレビで言っていた。「俳優 柄本明」-最後の講義をみておもうこと。

 テレビ番組の内容は演じるってどういうこと?何?みたいなことを番組にやってきた様々な人とともに演じさせながら考えているところをやってきた人たちみんなと考える感じるそのようすを番組にしたものだった。
 それはそれで興味深いのだけど、番組の最後で『ゴドーを待ちながら』を演じたことをはなして、その時のさいごのところで涙が出てきたことを話していた。なんでいきなり感動みたいなことを言うんだろうか。それまでの流れとは全く違ってというか、不思議な感じがあった。
 演じているとそこにホントのことがやってくるということなのかもしれない。
 ものの本によると、この作品は、ベケットがとことんまで行きついたような小説の執筆からはなれて、
 「明るいところに出てきたくて、『ゴドーを待ちながら』を書いた。息のつける空間が必要だった」ということらしい。
 
 この芝居は、ほとんどまったく何もないにひとしいような舞台で演じられるのだけど、不条理劇とか現代的とか難解なとか、そういう触れ込みで知られているものだった。だから、面白いとは思うけど、それを見て感動する涙が出るというようなものとは思っていなかった。ところが、あの柄本明がマジメというか正直にというか素になってというか、ああゆうことを言うのにちょっと驚いてしまった。
 あまり明るい話だとは思わなかったし、結局何も起こらないというのは期待してもダメだとまでは言わないけれど不条理なということなのであったという実存主義的な暗めのファッションの服を着て煙草をふかすてきな、みたいなものだと思い込んでしまっていたのだった。
 柄本明がさかんに番組に来てくれたひとたちとやっているようすを見ていて、ムカシの頃のそういう思い込みがいつの間にか消えていたのか、いまはそういう時代になっていたのかわからないけれど、突然ベケットの芝居のことをさいごに言い題したのに驚いた。それで分かった気がしたのだった。
 「明るいところに出てきたくて、………、息のつける空間が必要だった。」
という感じがわかった。いま柄本明がそういうことをいうのもなんとなくわかる気がするのだった。必要なんだね。
  

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