言葉と演技、記述することと演じること、これは言葉の二つの極である。演劇とは無関係に演技論がやりたいのだけれど。直接的なものと間接的なもの。フィクションの想像力のこと。平たく言うと誰かを演じてみてごらん。

 社会的な事象は言語化されなくてもその事象が生じる時にはそれの至近距離にいる人たちにはそれが感じられる。そのとき人はある演技をして(身振り未満であっても)ローカルなコミュニケーションをとれるだろう。言語化されることがなくても、感じられたこと、考えられたこと、それを表現するには言語化される前に、記述となる前に、演じるような身振りに近いような表現がある。というか、からだはうごくのである。
 芝居をするような演技ではなく(それはすでに記述されていることの再現だから)単に、「演じること」をしているのではないか。
 これは虚構ということと現実ということが実は水と油のようなまったく違ったものというのとは違って、背中合わせのような関係にあるのかもしれない。
 
 現実というものはもちろん私たちの存在とは無関係にあるー月も太陽も、地球もーのはもちろんだが、わたしにとってあるいは、わたしたちにとっては、それが存在するのは虚構の力によってである。それは演じること、身振りを示すこと。憤りや怒り、共感や哀愁、喜び、などなど。事物にわたしたちはそういうものを見ることもできる。鉱物や植物や動物や事物は演じているように見えるというかそのように意味づけられて見る。人間の世界が存在しているということである。それは、地球にとっては、気圏、水圏、地圏、生命圏、以上に大きな影響を持つ、ひとつの領域である。それは、フィクションの想像力が動かしている、人間の活動している、そういう世界である。記述することと演じることで成り立っている世界だ。
 
 情報論的には、「演じること」は、他の動物でもやっている神経系の脳の出力だ。社会生物学ということを言い出したエドワード・ウイルソンは「バイオフィリア」ということを言う。人間が好きな景色みたいなものがあるということを、それはゲノムに書き込まれた自然の中の舞台だというのである。それは、演じることの舞台であるだろう。

 それがものすごい勢いで記述の世界へと取り込まれて包摂され利用できるようになったのが人間のつくる風景にあらわれている。
 記述するということは技術的な発展段階を経ていまはデジタル化することに取り込まれていく。
 よく言われる、アナログとデジタルというのは、動物もやっている、「演じること」と、人間の世界に特有な「演技」の性質の違いである。記述された「演技」というようなことだ。つまり、こういうことによって、「演技」は客観的に利用可能になった。それは情報論的なコンピューター科学の言葉にすれば、要するに「コピー」ということが出来るということだ。アナログな「演じること」と、デジタルな、記述をコピーによって拡散できる「演技」を区別しなければならないことになっていく。

 これを、「演じること」と「演技」というように区別しよう。直接性と間接性みたいなこと。操作性という観点から見れば全く違うことだ。直接性は小さいから無視できるようだけれど、それは違う。直接性は、ある意味では「リアル」なプロセスで広がっていくから、操作性からは見えてこない。操作するためには、前提として、記述されたデータがなければならないからだ。記述されたものを使って「予測」されるものが「リアル」なものになるから見えて来ないものがあるのは当然のことだ。
 そのために、認識するためには、舞台とそこで演じることをいったん別にしてから統合することになるわけだ。空間的な認識、動かないものと時間的な動くものを、別ルートで解析するわけだ。感覚入力のたとえば、視覚系の脳のやることはこういうものであるようだ。この二つのルートは常に結びついていて、フィードバックの関係になければだめだ。
 インターネットがあるのに芸能の世界ではより盛んに、音楽のコンサートや劇の公演をするのは二つのルートがあるからなのかもしれない。ところが、ビジネスの問題として規模の問題が出てきてしまう。大規模にやらないとペイしない。しかしそれは直接性とは反してしまう。観客を操作することが主になってしまう。大規模にお客様を集めて思いっきり楽しんで喜ばして差し上げる。どんどん大きなスケールに引っ張られていく。
 ビッグビジネスということ。これは他の世界でも同じようになる。ビッグテックにビッグサイエンス。巨大金融ビジネス。操作することが主体なので直接的なところではなく、間接的な部門が肥大化していく。フィードバックが返ってくることがなくなっていくので新しいことが起こりにくくなってしまうのかもしれない。アンケートをとったり、データを集めたりして調べる。こういう間接的なことをやるようになるわけだ。
 芸能の世界では目先の新しさや奇抜さは出てくるけれど、アンケートやデータ分析をして、そういうことをやる。しかしそれは分析の結果であるので、ほんとに新しい感じは出てこなくなっている気がする。操作するところに権力が集中するせいなのか、直接的なフィードバックが来るのを嫌っているように見えるような気がする。クレームという考え方が出て来たということなのかもしれない。
 それでどうなったかというと、自律的な動きが遅いということだ。自発性が操作性のもとに置かれてしまう。これではなんか物凄く無駄なことに力をそがれてしまうような気がしてくる。ほっときゃいいじゃんではビジネスにならない。お金にならないでしょ。なんだかんだこういうことになっていってしまったのだった。もしそれが何かとてもまずいことにつながってるとしたら、それは何だろう。いろいろたくさんあるだろうな。
 
 ひょっとしてもしかしたら、それの弊害が一番大きく出ているのが少子化問題なのかもしれない。愛とは創造性、こどもが生まれて新しいものたちがやってくる。愛は娯楽をどんなに豊かに活性化しても出て来ない。予想されるフィードバックが来てもどうもダメなのかもしれない。それは自発的なフィードバックがかえってこないから初めの状態から変遷していかない。こういうことがどこでも起こっているから停滞していることから脱することがおきない。愛がやってこない。

 違う言葉にすると、持続可能性ではなくて転換可能性ということ。生きのびていくことだけではだめで生殖しなくちゃ意味がないというのが生物ということ。必要なのは愛、愛こそすべて。それを直感的に知っているのはおんなとこども。だから芸能メディアでは子供っぽい少女みたいな声が響いている。ところが操作するのは立派な学歴や血統をもったビジネスパーソンさまたちである。直接的な声とかそういう直接的なフィードバックがなかなか届いていかない集団で育ってきた人たちだ。いっそこういうのが全部人工知能に置き換わってしまう方がいいのかもしれない。辺鄙で秘教的なカルトみたいな自分たちは特別だというような意識で曇らされている様なのはなくて大丈夫でしょ。ない方がいいよ。でもお金も権力もそこにあるからそしてどういうわけなのか現在のテクノロジーの構造なのかエンジニアに都合がいいからなのかますますそういうことになっていく。エンジニアリングは目的を決めて設計を始めるから現在の状況を再生産してしまうからなのかもしれない。いまや昔のようなエキセントリックな奇人変人のような創造的な天才たちは中心にはなかなか入り込めないのかもしれない。ニュートンは実は魔術が大好きで実はそういう研究をしていた。ケインズはそういう資料を買い込んだそうだ。
 
 誰も出来ないびっくりするようなクリエイティブなことがやれれば競争に勝ち抜けるからなのかはよく知らないが、エキセントリックな「演技」を「学習」?してか、薬を使ってか、そんな人物がやるようなのをまねるのはいるみたいだ。サイケデリックなプログレロックがはやったときみたいに。 
 それもまた秘教的なカルトみたいな排外的な小集団になってしまえば消えてしまう。まぁ性的放縦やクスリで盛り上がっても愛にはならないからね。というので、八方塞がりだ。
 まぁそうやすやすとはブレイクスルーはやってこない。なに半導体が進歩すればどんなことも実現に近づくさ。半導体カルトみたいなことが地方経済にバブルを起こせればまぁいいのだ。

 まぁ冗談はともかくとして、わたしたちは何かを演じることで自分を変えることができる。それがフィクションの想像力というものだった。このときに、考えることは、想像が先なのか演じることが先なのかということで、子どもの発達や誰か別の人物にアバターに入って体験することで変わることが出来るという。つまり、どうやら「演じること」の方が先のようなのだ。
 このことから考えられることのひとつはひょっとしてこの30年にも及ぶ不景気はバブル崩壊以後のコストをかけない新しいことを始めようというのは後回しという態度を「演じて」きたことから、実はそういう人物になっていったのかもしれない。ならもっと積極的な人物を演じて見せればいい。お前本気かバカじゃないのかっていわれるようになれるかな?
 植木等という人を知っていますか?高度成長時代を象徴するコメディアンです。おーおれーはこのよでいちばんむせきにんといわれたおとこ、検索してみましょう。
 さてここまで書いたあやしげな理論によると高度成長は植木等の演じたことから可能になったということになります。アメリカのビッグテックはスティーブ・ジョブズの演じるパフォーマンスによってつくられたことになります。演じるだけならコストはたいしてかからない。でも、どうみられるか、バカと思われたらインチキな無責任なダメな奴と思われるのは嫌だ。そんなことどうでもいいなんて思えるかな。凄いコストじゃないの。でも何もしないと同じようではだめはダメ。鏡の前でひとりで演じてみてためしてごらん。なんかタクシードライバーの映画みたい?でもロバート・デ・ニーロは成功したじゃん。シビル・シェパードも面白かった。鏡の前で植木等だ!

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