アップデートすることは過去と決別することなのだが言葉の感じはだいぶ違う。過去を未来に置き換えるということになるのかな。恨みがましいことはもう誰も言わないのかな。テレビドラマ感想文。『不適切にもほどがある』。

 国民全体がしあわせという雰囲気満載の昭和40年代は同時にすさまじい同調圧力の社会だった。それがしあわせということなのだった。そのまま昭和の終盤になだれ込んでほころんだしあわせを何と呼んでよいのかいい言葉が思いつかないままに現在に流れ込んだままだ。
 最近よくできた言葉だと思ったのがアップデートという言葉だった。言葉というよりテクニカルタームの方が適切かもしれない。アップデートは自分でしなければならない。もちろんしない方が都合がいいならしないでもいい。それはその人の選択にまかされている。言葉というよりテクニカルタームだというのはそういうこと。
 つまり言葉というものは誰にでも共通の意味を持っているものという感覚がありその言葉を思い浮かべる人はみな同じことを思うという語感がある。なんか同調圧力と似てるね。
 
 国語というものはそういうものとして始まった。方言という自分たちの言葉からアップデートしたのが国語であった。でもそれには選択の自由はなかった。そうならアップデートとは違うね。国語は文字を読める国民を作ることが目的だった。地方の農民たちまで教育はなかなかいきわたらなくて字を読めない人もたくさんいた。それがほとんどすべての人が字を読めるようになったのが昭和40年代だった。ついに言葉が成立したのだった。

 ところが、同じことを思うということがすべての人にいきわたることはないので、つまり、幸せでないひとには、独特の表現力が付き纏うことになる。みんながみんなしあわせということから外れているから、言葉の力が及ばない世界ということなので、なんというのか国語の力が及ばないので始末に困ることになる。それはこの世の外側というのかあの世というか魔界の雰囲気のあるところになる。つまり怖いのだ。
 逆に言葉の力が及ばないことが反転して誰もがそれを恐ろしく思うということでもある。
 子どもの頃みた『愛と死をみつめて』という超難病ものの映画の吉永小百合演じる主人公はものすごく怖かったのをかすかに思い出す。
 こうふくな世界はつねにこわい世界に脅かされているというのは実感としてあった。不幸な人は至近距離内にもたまにいたということだった。あたりまえだけども。

 昭和40年代からはるか離れた今は難しい病気に侵されてしまった人でも別にちっとも怖くはない。たまにテレビのドキュメント番組でそういう人が出ているのを見ることもある。穢れが伝染する恐怖というようなことはナイーヴには感じられなくなっている。ふしあわせということが受け入れられようになったのだと思う。これはある種の知恵なんだと思う。もちろん他人の幸せをねたんだりすることもある。ところが呪ったりはしない。もちろんそういう人もいるだろうがそれはまた別の問題だろう。
 どうしてそういうことができるようになったのだろう。それはアップデートをすることができるからだというのがその答えだ。アップデートというのはもちろんインターネットのあることが前提だ。インターネットによって個人的にいろんなことを知ることができて、もちろんそのことには知らない人たちのことも知ることができて、だれがどういうふうに思うようになったかとかどういう経験ができるようになったかであるとか、一挙にものすごい範囲の世界のことが、簡単に自分ですることができるようになった。いろんな人がいてそれぞれ独自に自分のことを決める方法に広い知識をつかってアプローチするもを知ることができる。このことで言葉は呪縛から離れて多様な表現に向かうことができて一意的な意味の縛りから解放されることができるようになる。言葉と同調圧力のリンクが切れることで言葉も自由になれるのだ。もちろんもう一度言葉と同調圧力のリンクを強力に造りだそうとすることも可能でもあるけれど。
 そうして、アップデートということがやってきたのだった。もちろん、アップデートすることで不幸せが解消されるなんてことはない。
 しかしその過去から決別する儀式というのか演技をすることならできる。演じることで違うモードに移っていけるのだ。そういうことを見て人は不幸せをそういう人を受け入れることができるようになるわけだ。難病の喩でなら治療を受けるということがそれにあたるのだろう。

 阿部サダヲ演じる市郎はあえてタイムパラドックスをおかさない。自分の未来と自分たちの未来に思いを巡らせるときの市郎はもうすでにアップデートしていた。その結果として市郎はタイムパラドックスをしないことを選択した。自分たちの未来を未来にいって過去として知ってその続きとしての未来にしばらく生きることを経験してそこで自分をアップデートした。その未来を選択する。このねじれた展開は何を意味しているのかよくわからない。物凄い大きな不幸せのことをトータルに受け入れることは個人の選択であるというような感じ。これはやっぱりある種の知恵だね。過去の目で未来を見て未来の目で過去を見る。

 このドラマとほぼ同時にやっていた『君が心をくれたから』というテレビドラマもちっとも怖い感じがなかった。こっちは時間ではなくて別の次元に超越する話で運命を自分で選択するという話になっている。こっちは贈与論であった。これもまたアップデートする話といえなくもない。

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