ストリックランドを肯定しちゃダメですか

シェイプ・オブ・ウォーターを観た。

初めに言っておくが、私はこの映画を観てめちゃくちゃ絶望した。

映画の出来が酷かったからじゃない。むしろ映画は最高に素晴らしくて、誰かが言っていた「MAXまで金を掛けた同人誌」という言葉がしっくりハマるような、世界観の作りこまれた本当に物凄い作品だった。ブラボー!

——だけど私は、そんな素晴らしい映画を観終わって、心の中で拍手喝采しながら孤独に絶望していた。なぜか?それは、この物語に出てくる悪役、ストリックランドに苦しいほど感情移入してしまったからだ。

このnoteはそんな私を慰めるために書いた、いわば自慰行為みたいなものだ。普段映画の感想なんて書いたことのない私だから、多分ただの自分語りになってしまうと思う。それでも書き留めておきたいのは、たぶん、たぶん日本のどこかに、私と同じ絶望感を味わった人が少なからず居るんじゃないかと夢見ているからだ。そんな人に、絶望してるのはお前だけじゃないぞって言ってやりたくて、そしてたぶん、私にも同じ言葉を掛けてほしいのだと思う。

だから書く。

敢えて主題であるイライザと「生き物」の恋にはほとんど触れず、最低の悪役、ストリックランドという男にスポットライトを当ててこの映画を振り返ってみたい。

*

映画のあらすじはこうだ。

主人公は、声を出せない女性イライザ。彼女は政府の研究施設で働くパートタイムの掃除婦だ。極めて規律的で変化のない毎日を送っていた彼女は、ある日研究施設に運び込まれた「不思議な生き物」と出会ってしまう。どうしようもなく「彼」に心惹かれるイライザ。そして「彼」もまた、イライザに心惹かれてゆく。徐々に彼と心を通わせてゆくイライザだったが、ある日、彼女は「彼」が政府の研究の犠牲になると知ってしまい——

そんなこんなで、イライザは「彼」を研究施設から逃がすため、警備の目をかいくぐった大脱走計画を実行することとなる。

その時に彼女の味方となってくれるのは、パートタイマー仲間の黒人女性ゼルダ、リストラされたゲイの絵描きジャイルズ、そして敵国であるロシアのスパイ ホフステトラー博士の三人だ。

そんな彼ら勢力と敵対する悪役が、この記事の主役、軍人上がりの施設管理職であるストリックランドである。

ストリックランドという男は、至極「真っ当」だ。彼は米国人で、白人で、男性で、正規雇用者で(しかも地位がある!)、その上ヘテロセクシュアルなのだ。え?だから?なんて思われるかもしれないが、先述したイライザの仲間たちのステータスをもう一度見て欲しい。

……ね?嫌味なほどに対照的でしょ?

ストリックランドは庭付きの一戸建てに住んでいる。美人なブロンドの奥さんが居て、子供にも恵まれて、キャデラックを乗り回す。舞台となった1962年のアメリカにおいて、「最も限りなく正解に近い」男なのだ。

けれどそんな表の顔とは裏腹に、彼は悪役としてのクソ野郎っぷりもまた最強だ。パワハラやセクハラ程度のことは息をするようにやってのけるし、根っからの差別主義者だし、研究対象である「不思議な生き物」を高圧電流でサディスティックに折檻する。頭は固いし、トイレの後に手は洗わないし、セックスも下手そうだし、なんかもう、言い出したら切りがないくらい、とにかく全てにおいて最低の男なのだ。上司にしたくない男オブザイヤー2018堂々ノミネートです、おめでとうございます。

そんな彼が、まんまとイライザたちに出し抜かれて「生き物」を奪還されてしまうさまは、一言でいえば「ざまあ見ろ!」だし、正直スカっとする。さっさと死んでくれと劇中で5万回くらい思う人も居るだろうし、たぶんその感覚は正しい。

ただ、それだけでは終わらない。

ギレルモ監督は、そんなクソ男の苦悩を、断片的ながらきちんと、本当に苦しいほどきちんと描いている。

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「生き物」をイライザたちに奪還されてしまったことを、ストリックランドが上司から激詰めされるシーンがある。一度観ただけなので正確ではないが、彼は上司にこんなことを言った。

「私は今日まで誠実に、忠実に、”まともに”、任務をこなして来ました。私は"まともな"男です。たった一度の失敗で、それが失われるのですか」

しかし彼の上司は、それをあまりに厳しく突っぱねる。このシーンでストリックランドが言い残した、「私はいつまで”まとも”であり続ければいいのですか」という言葉は、あまりにも悲痛だ。

同様に、もうひとつ彼について印象的なシーンがある。ストリックランドは、執務室で「ポジティブシンキングについて」という自己啓発本を読んでいたのだ。自信家で、差別主義者で、傲慢な彼が、プラス思考の啓発本を読んでいるのは、ひどく滑稽に映るだろう。

物語の主題を素直に追っている人たちにとっては、もしかするとこれらはごく些細なシーンなのかもしれない。けれど私は、このふたつのシーンが、自分でも信じられないくらい心に突き刺さってしまったのだ。

なぜ?

だって、ストリックランド、たぶん頑張ってんだもん。

*

さて。ここで少しだけ自分語りをするのをご容赦いただきたい。

私は岐阜のド田舎から上京してきた芋女だ。そこそこの大学に入るために田舎から出てきて、そこそこ名の通った大企業に就職して、そこそこ給料をもらって、そこそこな感じで営業マンをしている。ストリックランドと比べたらウンコみたいな経歴だが、それでも中々に”まとも”だと自分では思っている。

けれど私は、必死に"まとも"な振りをしているだけの人間にすぎない。「本当のわたし」のままでは世の中など生きていけない(と思っている)ので、経歴だとか、身に着けているものだとか、立ち居振る舞いだとか、そういったあらゆる「後天的な要素」で、自分を"まともっぽく"装いながらコンクリートジャングルで何とか息をしている状態だ。正直、生きづらいことこの上ない。

こんなことを言ったらストリックランドも遺憾の意だろうが、私は、彼もどちらかというと「こちら側」なのではないかと思うのだ。彼もまた、どこかに生きづらさを抱えた、「後天的要素でガッチガチに身を固めた男」なのではないか、と。ていうか、そうじゃなきゃあそこまで”まともさ”に拘らないし、プラス思考の自己啓発本真剣に読んだりしないと思う。

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後天的要素で身を固めたい気持ちが、痛いほどわかるシーンがある。

ストリックランドがキャデラックを買うシーンだ。「この色は成功者にこそふさわしい」なんておだてられて(チョロい客だ)、まんまと買ってしまう。彼は表面上は満足しているだろうし、確かに自分の意志で選んだのだろうけれど、たぶん、私に言わせれば、あれは「キャデラックだから」キャデラックを買ったのだ。

私が「プラダだから」プラダの財布を買ったように、「シャネルだから」シャネルのリップを買ったように、ストリックランドは、「キャデラックだから」キャデラックを買った。キャデラックに乗っていることが「正解」で「ふさわしい」から、キャデラックを買った。これって多分本質的にはすごく虚しいことで、だから私は、あのシーンを思い出すたびに自分をぶん殴りたくなる。

*

こうやって私やストリックランドが馬鹿みたいに囚われている「まともさ」とか「正解」とは何なんだろう、と考える。

私は、「悔しかったらマッチョになれ」と教えられて生きてきた人間だ。極端な例を出すならば、女が職場で認められないと思ったら男の三倍努力して認めさせればいい、的な。悔しかったら上へ行け。悔しかったら自分がマッチョになって這い上がれ。権利を主張する前に努力しろ。それが正だと思って生きてきた人間なので、何なら今でも行き過ぎたフェミニズムや弱者保護はちょっと苦手だ。

多分ストリックランドも、私に似た方向性の、けれど私よりずっと過激な価値観を持っている男なのだと思う。彼にとっては、エリートとして仕事をバリバリやるのが正しくて、可愛いブロンドの奥さんと子どもが居るのが正しくて、下手なセックスを繰り返すことが正しくて、キャデラックに乗ることが正しいのだ。

そして彼は、その正しいことのために、たぶん、めちゃくちゃ努力してきた人間だ。

その人生すべてを、彼にとって「正しくない」存在であるイライザたちにめちゃくちゃに打ち砕かれて、その上信頼していた上司から要らない子扱いされてしまうのだから、これはもう絶望以外の何物でもない。

*

この映画は、そんなストリックランドの「正しさ」や「努力」を時代遅れだと示唆した。彼もまた被害者である、という描かれ方はされていたけれど、現に、悪役である彼に救いはなかった。

そして、そんな作品がアカデミー賞を取る時代なのだ。

だから私は、冒頭に書いたように絶望している。

ストリックランドは(そして私は)、もう時代に必要とされない人間なのだ。イライザたちのように、ありのままを受け入れて生きることが「正しい」時代なのだ。私たちは、時代遅れのモンスターなのだ。

*

私がどのくらいこの絶望を引きずっていたかというと、映画を観終わってから丸々三時間以上ツイッターで「ストリックランド」で検索をかけ続けたくらいだ(気持ち悪いね)。

ツイッターには、私と同じように絶望している人がほんの少し存在した。ほっとした。彼らは多分ストリックランドや私と同じように、多かれ少なかれ「強く正しく」あることを強いられてきた人たちなのだろう。

私は、彼らを肯定したい。ストリックランドを肯定したい。だってお前ら、頑張ってんだもん。

きっとこれからマイノリティやアザースを主役に据えた映画作品が日の目を見る機会は増え続けていくだろうし、多分私はそのたびに少しずつ絶望するのだろう。

だけど私は、やっぱり強くありたいし、正しくありたい。柔軟にあるように注意深く生きているけれど、かといってストリックランドのような人間も否定したくない。多様性が美しいものであるならば、彼もまた、その多様性の中のひとつとして認められるべき存在だ。

もしまだ映画を見ていない人がここまで読んでくれたのなら、是非劇場でこの素晴らしい映画を楽しんできてほしい。そして、ストリックランドという男の人生に、ちょっとだけ思いを馳せてあげて欲しい。


#映画 #シェイプオブウォーター

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夏山栞

コメント7件

こんばんは。おすすめから来ました。
いま見終わったところなのですが、夏山栞 様のご意見、とてもよくわかります。ワタクシも必死に演じている者の一人です。
ただ、そうして演じていることで、なんとか社会的身分は保証されているし、一度のミスで積み上げてきた信用すべてがあっけなく瓦解し、ポイ捨てされることは雇用契約上おそらく無い世界に暮らせているのではないでしょうか。

もちろん日々そのプレッシャーと戦わざるを得ない、「一度失敗したら終わりだ社会」で働いているという強迫観念は実在するわけで、これが人の評価を気にしすぎる現代日本独自かと思いきや、現代アメリカの市井にも、同じような不安が蔓延しているのかもなあ、と思えたことは大変興味深かったです。

とはいえ、そのストリックランドがマイノリティやアザースに負けるストーリーが映画で賞賛される時代。

時代はまだまだストリックランドの「まとも」「努力」が報われる時代なのかなと、逆説的ながら思ったりもしています。(個人的意見ですが(^_^;)
ここまで言われてしまう世の中「適応力は教育による後天的な脳の部位の発達具合が大きいからこれも決して中傷ではないんだけどどうしても気になるなら精神科に行けばいいんじゃないかな」これを”弱者”に向けて行った日には大騒ぎになるけど、相手がヘテロ白人男性(側)だと大丈夫。
もし、ストッリックランドを高倉健で遣ったらどうなるか?!キャスティングなんだよね?
物語ってすごい断片性がありますよね。主人公も悪役も大抵頑張ってるし、落ち込むし、成功するし。ただ、時代性によってもてはやされる人とこけおろされる人がいるし、それを大抵の人が気づかぬ内に評価して分類しちゃいますよね。そんな誰もが気づかない内に批判しがちな人達に目を向けた素晴らしいnoteでした。ありがとうございます。
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