父との関係はわかりやすい分
母より楽であった。
父は所謂団塊世代の九州男子で不器用。
私が繊細な部分があり不器用。
殴られ怖かった。簡単に言えばこんなまとめになる。

母はお母さんと呼ぶより
ママってイメージで
可愛い人と言われていた。
大学生で私を産んだが
お嬢様で、悪いことはしないタイプであった。

私は中学のとき、父が単身赴任なことを
いいことに、一瞬特攻服をきたり
集会にいったりしていた。ヤンキーみたいな感じであった。呼び出されたりは日常だった。

そこから私がいつも母を困らす。
母を困らせるなという叱られ方が
大人になるまで続いた。

いつも母が可哀想だからやめろ。
そーゆー中にいた。
実際は、私のが殴られたり大変なのに
私が可哀想となる人がいないことが
辛く、これが私の恋愛拗らせ病になったように思う。私を可哀想といってくれる人
母より私!な人に依存してしまう。
私を可哀想だと言ってくれる人を
恋人に選ぶようになっていた。

母には1度、どうして私より父を優先するの?
と聞いたことがある。
殴られ血だらけになった娘をみて
どうして父を責めないの?
私を守るため実家帰省などしないの?
同じ女性として、許せないという気持ち。
また事なかれ主義な人はいつも
矢面に立たずにすむ。
そんなことをぶつけた。

母は父が怖かったといった。
専業主婦な母は父がいないと
生きていけない。そんな答えだった。

母も私が病気になり、
変わった。私のそばにいるようになり、
父が私になにか傷つくことを言うなら
怒るようになった。

父も母も私の病気で変わった。
親として、、って
考えるようになった気がする。私は起こることには全て意味があるという言葉が苦手だ。それを意識すると
今、電車が遅れたことにも、意味があるのか?など考えはじめ、全部の意味を考えだし
きりがなく疲れきってしまった時期がある。
ただ起こることを意味があるものにしよう、そういう意気込みは好きだ。
両親からは娘の精神病を意味があるものに
しようとする意気込みを感じた。

私がベランダから飛び降りようとしたり、
車から飛び降りようとしたり
そーゆーことが止められない時期があった。
なにか嫌なことがあって、辛いのはまだマシ。
何もないのに、息するだけで苦しいことに
疲れ、そーゆー衝動を止められなかった。
ただ今思うと、そーゆー衝動は
母の前でしか起こらなかったから
どこかで甘えていたのだろう。

そんな日々のなか、母は
自分の母親に、助けてと
電話をした。おばあちゃんは駆けつけて
私を抱きしめてくれた。母もおばあちゃんがきたら、安心した顔になった。
それを見て、母はおばあちゃんの娘である
母も母に頼りたい。誰かの子供なのだ。そんな当たり前のことが不思議に感じた。

もし、親に不満がある人は
親を親として捉えすぎて
期待しすぎてないか??
親も誰かの子供であるって考えると
少し気が済むのかもしれないと思う。

母は私が社会復帰するときも
こっそり職場を見に来るくらい心配症になっていた。
私も、もう同じようになりたくないから
誰かに、私がおかしくないか?
チェックしてもらわないと不安になり
母に何でも話した。
どこにでもついてきてもらった。
お金も出してもらった。

結果、依存しあう、母娘になっていて
双方お互い自立しなくては、と
薄々思いつつ、そのまま
40になるまで続いた。

依存しあう母娘の関係は40歳で
母が倒れる日まで続いた。
母が倒れ失語症となり物理的に頼れなくなるまで、止められなかった。

母が倒れたことで
結果的に弟も私も一年半で
結婚した。結婚が自立でもないし、
結婚が幸せというわけでもない。

ただ弟はチャラチャラできないという気持ちになり、自分が一生守りたい人を見つけたいと
思ったといっていた。好きな人と
自分が幸せになることで
安心して欲しい気持ちになったと言った。
誰かと生きてく
覚悟を持ちたい。それが結婚な気がすると。
私も全く同じ気持ちだった。

結果、私たち兄弟は起こることを意味があるものにしようとする
意気込みで
母は自分が病になってまで

命がけで身体を張ってまで
私たちを覚悟ができる大人にしてくれたという意味あるものにしたように思う

今両親は私たち兄弟夫婦も
毎月遊びにいったり
旅行したり、孫を見せたり
弟にいたっては
実家に毎日調理師、栄養士まで
派遣している。
両親が安心し笑顔で暮らしてくれてる気がしている。

母とのことは長年葛藤はあったが
死ぬ前に幸せだったと思えば
オールOKみたいな気持ちであり、
確実に生まれてから
今日までより、両親と残された時間は
少ないであろう。
毎回それを思うと切なくなる。
私は自分が後悔しないために残りの時間、両親と向き合いたい。
それだけは決めている。

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