私は水になりたい。
この湯に溶けて液体になりたい。
いつも風呂に入るとそう思う。

お風呂は私が唯一独りになれる場所で、それは私のユートピアであった。家族は多く、金はない。
一人部屋が欲しいなどと言える家庭ではなかった。だから、20を過ぎても、一人部屋など与えられたことは無かった。私は厭世家で、人が苦手である。または関心がないとも言える。小さい頃からそれは治らない。赤子の時は父まで嫌っていたようだ。

仕事もそれが災いしていた。話すのは苦手で要点をうまく伝えられず、声も小さい。頭もあまりよろしくない。上司には信用されず、ほぼ干されている。それはよく分かっているが、どうすることも出来ず、自己嫌悪してお茶を濁している。時給3桁で、定時社員。お金は欲しいが能力はない。その理想と現実に毎日苦しみ、後は虚無があるだけだった。

水になりたい。
存在ごと溶けだして、私をなかったことにしたい。
死ぬと死体が出る。死んでしまえば気にはならないのかもしれないが、私はお墓に入りたくなかった。骨ごと海にばらまいて欲しい。いつもそう思っている。

水は私を好かないようで、私はいつも溶けることが出来ない。泳げないのも水からあまり好かれてはいないからだと思っている。親不孝者だからだろうか。

私はふやける手を見つめた。近くにある剃刀にそっと手を伸ばして思い切り切る。
滴る血を見てこんなことでは消えることも、死ぬことも叶わないと思う。
湯船に落ちた血を流す。立ち上がって湯船から出る。長湯をしたようで少しくらくらする。

ドアを開けて、タオルを出して吹いてでる。化粧水をつけて、パジャマを着る。絆創膏を取り出して切った箇所に貼る。

風呂で血を流したことなど誰も気づかないだろう。

脱衣場を後にして台所に向かう。その時には“水になりたい私”を奥に押し込んで、“家族といる時の私”になっている。口元に小さな笑さえ浮かぶ。

「お風呂上がったよ。お次の方どうぞ。」

水になりたい。奥に押し込まれた“小さな私”が虚ろへと誘惑した。

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