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【500社就労記念】 記事の紹介御礼 & 人生の振り返り

またもや、#武智 倫太郎さんに、記事(サイトマップ)を紹介していただきました!ありがとうございます!

武智さんは文中で、仏教の過酷な修行『千日回峰行』と、私の『500社就労=500修行』の対比で

千日回峰行が、隔絶された修行環境での鍛錬であるのに対し、おおかみさんの『 #500社修行 』は、保護されない厳しい現実の中での #サバイバル といえます。

と述べられておりますが、確かにそうかもしれません。


千日回峰行は、僧侶が自ら決断して、自由意志で始めるものです。自身で決定したものであり、完全な自己責任。
何があっても、悔いは残りません。

しかし、私の日雇い綱渡り500社は、離婚→幼児連れのシングルマザー→リーマンショック→非正規雇用の拡大→震災→ハラスメントまみれのブラック企業と連戦という不可抗力との戦い。
理不尽極まりません。

千日回峰行が、荒波に挑むサーフィン世界選手権だとしたら、私の日雇い綱渡り人生は、海辺に住めば津波に遭い、山辺に住めば山津波に遭い、平地に住めば洪水にやられるという、あくまでもイメージですが、そういうもののような気がします。



私の場合、500社就労だけでなく、人生の初期から、平穏はありませんでした。

以下、私の背景の人生譚。
長くなるので、興味と時間のある方だけお読みください。

その前にクイズを1つ。

500社目 現場近くの風景 (右)
クイズ:ここは何処でしょう (左)

表の自分史



私は5歳で、選択性緘黙(せんたくせいかんもく: 家の外で声が出なくなる)になりました。また、早生まれなので運動神経が悪く、小学校では長らく馬鹿にされていました。

選択性緘黙で声が出ないのをいいことに、ヤンキーだらけの荒れた中学校では、校長や先生たちからもイジメの標的にされ、1000人の生徒がいる全校集会で吊し上げをくらい、PTSDと複合神経症(対人恐怖、パニック障害、強迫性障害、解離など)になりました。

親に相談しても「学校に行かないことは、すなわち死ぬこと」と脅され、ズル休みも出来ませんでした。


高校でも、それらの症状があるために、またもや全校集会で1000人の前で吊し上げを食らう羽目にあい、歩行障害とIBS(過敏性大腸炎)になりました。

その頃はお腹も痛かったので、誘われても生徒の輪には入らず、独りで文学作品を読みまくっていました。
大江健三郎や遠藤周作まで読んでたんだから、なかなか偉い高校生だったと思います。
夢枕獏と澁澤龍彦と江戸川乱歩が、大好きでした。

専門学校で良い友達が出来て、ようやく青春時代の到来でしたが、PTSDや複合神経症の発作が、いつ起こるかわかりません。でも遊ぶお金が欲しくて、バイトは3つ掛け持ちしてました。世間知らずの学生なので、嫌な思いも沢山しましたが、ガムシャラにやってましたね。


学校卒業後、夫と出会い、もう少し東京で遊んでいたかったのに、夫の実家がお世話になっているお坊さんに、結婚式の日取りを決められてしまい、若くして結婚となりました。

夫の実家は、ちょっとした"やんごとなき一家"でした(田舎・本家・長男・自営業の嫁)。
お姑さん一人に苦しむどころの話ではなく、親戚が集まれば30人以上をおもてなしするために、女衆は台所係。
やんごとなき一族の原作のように大お婆さまが仕切っており、姑を含めて、親戚のおばさん複数名と熾烈なバトルの日々でした。

何年も戦っていたうえ、実家が遠かったので頼れる人もいません。私は拒食症になり、体重が40キロを切る寸前までいきました。

とうとう離婚を決断し、息子は"やんごとなき一家"に家督として置かれ、私は幼稚園児の娘を連れて実家に戻りました。(円満離婚のため、その後も、そんなに悲惨ではありません)

しかし、その頃はシングルマザーには厳しい世の中。
経歴とスキルのために、事務職を希望していましたが「小さい子供がいる」というだけで、派遣の面接時に断られることが多くありました。

長期の事務の仕事に就けない期間は、日雇いでも、あちこちで仕事をして回るしかありません。
ここから、本格的に500社就労の道のりがスタートします。

なんとか「家族にも子供を見てもらえるから」と言って事務職に着くも、1年後にリーマンショック到来。
会社の労組にお金を取られて強制加入させられていましたが、派遣社員は蚊帳の外な感じなので、会社都合で失業ということになりました。

失業保険が切れた後もリーマンショックのあおりは続いており、近場で働くところが見つかりません。
ホームレス達と悪臭漂うバスに揺られ、遠く山の方まで働きに行く日々。日勤→夜勤→日勤と24時間働かざるを得ないこともあり、眠眠打破を常備し、寝る時間は、電車の中で30秒ということもありました。
日雇い派遣 底辺カルタ シリーズ は、この頃に出来ました。

子供が小学生になったら、少しは働きやすくなりまして、「産休の代理」ポジションの事務職を転々とすることが増えました。1年に満たないものが多く、失業保険は1度だけ取りましたが、あとの求職中は、もっぱら日雇い派遣でした。

でも「地獄はもう見たくない」ので、苦手な電話を克服し、テレオペや、CAD、Illustrator、Photoshop、HTML/CSSも、Accessも、何でもかんでも手当たり次第やっておきました。

嬉しいことに、テレオペは短期間のものから長期間のものまであり、時給も良い方なので、地獄の底辺工場とは縁が薄くなりました。

しばらく呑気に会議室の準備や、お茶出し、コピーなどばかりしていましたが、「こんなことをしていたら、歳を取ったら派遣の仕事すらなくなる」と思い、専門学校時代にプログラミングをしていたので、IT職を目指し始めました。

IT職についた後も、ひたすらスキルアップをし続けないといけません。
スキルが中途半端だった30代の頃、緊張感のある職場で胃潰瘍になり、下血し「このままだと死ぬかも」とショックを受けました。液キャベを毎日飲んでたら、意外と早く治って助かりました。
その後、飛躍的にスキルが上がり、もうストレスを抱えることは無くなりました。人間、死線をくぐると強くなるものです。



2011年3月11日の東日本大震災。
家の被害はほとんどなかったけれど、原発の爆発を見て戦慄が走りました。それから直ぐに「学校給食に放射能の汚染の疑いがある食材を積極的に使う(食べて応援)」という通知が市から通達され、ママ友の紹介で、市民運動に参加。議員達と食い止めました。

その後、SNSを活用して、食品の放射能検査の要請をし、大手スーパーマーケットを動かしました(提出した要望書や、資料は全部保管しています。この要請を受けた大企業は、検査体制を万全にしたため、経産省から表彰されました)。
その後、NPOに加入。メンバーと共に、継続的に活動をしました。

デモや国会議事堂前アピールにも参加。市議、県議、都の区議、都議、国会議員らと接触(主に、野党議員)。
永田町の議員会館の集会に参加したり、地元で勉強会を開いたりしました。

その後も市民運動を続けていましたが、メンバーの思想の押し付けに嫌気がさして離脱。



それから間もなくして、日雇い派遣の派遣会社の賃金未払い問題が頻発し、何度となく「戦って、本来受け取るべき給料を払わせる」ようになります。

何度も何度も、あらゆる方法で「給料をちゃんと払わせ」ているうちに、労組でないと対応できない問題にあたり、労組のベテラン勢と共に、派遣会社と取引先の大企業を呼び出して、労基法と労働環境の改善のレクチャーをしました。その後も「何か問題があったら労組に頼る」ことにして、いくつかの有名な労組と接触しました。

でも大抵は裁判沙汰になれば、1人で勝てたので、加入はしなかったんですね。失業保険が出てきた期間は、求職活動の合間に裁判所に行って、たくさん傍聴しました。なので、裁判所は庭みたいな感覚になっていて、あまり緊張せずに上手くいきました。


労働研究会や勉強会にも、積極的に参加しました。筋金入りの幹部メンバーがいる労組を知り、勉強のために加入しました。幹部から、様々な労働争議の話を聞いたり、裁判資料の整理の手伝いをしたり、労組で戦っている人々の団体交渉にリモート参加したり、ビラ配りや演説をしたりして、実践で学んでいました。

そんな最中、派遣は人権がありませんから、またもや私は派遣先の部長からハラスメントを受けて会社に相談をしたところ、派遣会社から脅迫状を送られて辞めさせられることになりました。
団体交渉3回、事務折衝1回、最後は東京都庁38階で労働委員会のあっせんにて解決。1年かけて戦って80万円ほど勝ち取りました。

とにかく数年間、トラブルの連続だったので、7回の労働争議で勝ち取った額(本来の給料)は、200万円。
勉強と実践の成果ですね。

今もまだ派遣ですが、コンプライアンス意識の高い会社で、平和に働いております。これが普通であって欲しいものです。


以上。
ここまでは『表の自分史』です。


裏の自分史(心の自分史)


ここからは、同時進行していた、心の内面やスピリチュアルな出来事の自分史、『裏の自分史』について語ります。


離婚後、ハードな日々でしたが、まだPTSDと複合神経症も続いていたので、側から見たら普通に見えるかもしれないけど、いつ発作が起こるかわからないので、人一倍大変な思いをしていました。

有名な精神科がある大学病院に行ったら、抗精神薬を出され、服用したところ、「話し言葉の文法が崩壊した」ので、恐ろしくなり薬はやめました。


21世紀になり、新しい心理療法がたくさん出てきたので、自分で自分の精神科医になるべく、本を読み始めました。
1100冊の本、総額120万円。

自分の軸が定まらない頃、ソーシャルワーカーを目指して通信制の松戸の聖徳大学で心理学を3年間学びましたが、4年目に震災が起きて、勉強に集中出来なくなって止めてしまいました。

その後も夜間や休日に、あちこちの大学、大学院、カルチャーセンターなどで、心理学、哲学、ボディーワークなどの講座を受講しました。
 

心理学勉強会で、父と同じ年齢の東大法学部出の博識な師匠と出会い、定期的に数名で彼の家に集まっては、マニアックな心理学の話を聞きました。貴重な本も貰いました。

今は閉院しましたが、麻布十番には「家族機能研究所」という病院があって、日本に"アダルトチルドレン"の概念を持ち込んだ、斎藤 学先生というカリスマ医師が活躍されていました。

オープンカウンセリングを始め、日本では珍しいワークショップ形式の治療を取り入れていたデイサービスを提供していました。そこにも半年ちょい居て、心のケアをしながら、学びを深めました。




スピリチュアルなヒーリングや最新のセラピーもいくつか習い、受講費は総額で80万円はかかりました。

その甲斐があって、本来は専門機関(日本には"トラウマセンター"のようなものは無いのではないかな)でないと治らない、PTSDや複合神経症が、エモーションコードというエネルギー療法で9割方治りました。

※本だけでは習得できません

それまでは対人恐怖で、出来る限り接客業は避けていましたが、エモーションコードで治った後は、リゾートバイトでホテルで働き、知らない人たち8人とタコ部屋で泊まり込みも平気になりました。

"奇跡"ってのは、本当に起こるんですね。



スピリチュアルな自分史


2013年〜2015年の間に、劣悪な日雇いの工場で、熱中症に3回罹り、死にかけて、三途の川を渡りそうになりましたが引き返して生き返りました。そのせいか、もともとあった霊感が強くなってしまいました。

2018年に、ポルターガイスト現象が、テロ的暴走を始め、何度もコンビニの機器を壊すまでになったため、霊感のある友人に相談したら「1300体の霊が憑いてるから、すぐにお祓いして!」と言われ、有名な神社でお祓いをして1299体落とし、最後の1体の悪霊は不動護摩で落としました。

2019年からは、お寺で勤行を始め、毎日のように通い百度勤行を達成しましたが、なんだか千回やらないといけないようなので、今日まで続けてます。

ホッとしたのも束の間、「呪いの怪現象」が始まりました。
脅迫状を貼られる、ストーカーされる、目の前の他人が次々と発狂する、ド級の憑神に居座られるなど、山盛りの怪現象が起きて続けて3年。

これでも修行してたから、私は死なずに済んだようです。


ポジティブ思考を押し付けてくるスピリチュアル系の人に「あなたは不幸なんかじゃない!幸せなのよ」と決めつけられてムカついたので、3年の怪現象の記録を5万3千文字のnoteにしたのが、こちらの記事です。

これが私がnoteを始めた、きっかけでした。



昨年は、体調不良で入院、手術となりました。
薬の副作用で右手と右腕が痺れていましたが、半年経ち、ようやく治ってきたところです。


このように、自ら全く望まない人生に修行をさせられ続け、『常住坐臥』(お寺の勤行)と『行住座臥』(日々の修行な暮らし)をしています。

この先に何があるのかわからないけれど、そして、一度臨死体験してるから、あんまり死も怖くなくて、まあ、生きてたら生きてるで、死ぬなら死ぬでの人生で、道(タオ)に従おうと思いますが・・・

果たして、これから人生で大逆転はあるのか?


もし、今までのマイナスが大逆転して豊かになったら、息子を通訳として連れて行き、ドバイでブルジュ・ハリファを観たいと思います。

別に頑張れば年内に行くのは無理ではないけど、一人じゃ、つまらないので。

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