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人体実験2019/08


身の周りから、ものすごい勢いで「悪」なるものが減っています。

先日、Netflixで全裸監督を観ました。いやぁ、素晴らしかった。
気が狂ったような80年代、消費するために消費する時代、まさに飽食の時代をめちゃくちゃエンタメに仕上げていたと思います。
それはもちろん、欲望をむき出しにすることに対し、社会全体が持っていた意味不明な批判感情(≒規範)への抵抗でもあったろうし、同時に悲惨な時代の中にもそれを乗りこなして花となる人はいる、という非常に多面的な示唆だったと思います。
戦争を描けば「本当は間違ってると気付いていた善良な民草」になりたがり、ポルノや拝金主義を描けば「清潔なヒーローに〝こんなことになんの意味があるんですか!〟と叫ばせ」たがる、紋切りのポリコレストーリーにうんざりしていた私の心に刺さりました。

凄まじい時代だった。間違ってもあんな頃に戻りたいとは思わない。
その印象をちゃんと観る側に残していること、制作陣の手腕と覚悟を感じます。
世界は確実に進歩、最低でも「清潔」にはなっていっているんだな。

思い返してみれば、私が小さい頃──30年くらい前──の社会ってひどいものでした。
まず政治、何をしてるのかまったく判らない。騒ぎになるのは政策に関係ないスキャンダルの時くらい。新聞は今よりもっとスノッブだったし、バラエティとニュースは完全に隔絶されていた。情報が自分のほうから手招きすることなどありませんでした。
いまの若い人には信じられないかもしれませんが、私が中高生ぐらい、つまり2000年を挟む頃には、大人ですら時の首相の名前も覚束ない人がぞろぞろいたほどです。「官房長官」なんて役職があることすら知らない人が大半だったのでは。
「日本は政治と経済が切り離されているから」と、庶民の間ではマジメに言われていました。「経済さえうまくいっていれば、政治はどうでもいい(どうせ何もしてないだろう)」と。

実際には、そんなわけありませんよね。
でも2000年代に若者が政治を語ることは、なんとそのまま「ネトウヨ」くらいの心象でした。確実に不名誉なほうの狂人扱いです。そういえばいまほど「狂ってる」という言葉に肯定的なイメージも持てなかったように思う。大学に入って最初に友達になった毒舌っ子が、自分の親のことを「発狂して精神病院に〜」とか言い出した時、「発狂」という言葉をカジュアルに使う人間に激しい生理的嫌悪を覚えたこと、急に思いだした。精神疾患全般に対する忌避感情も、ほんの15〜20年前は比較にならないほど圧倒的だった。
いまの若い人は「なんでこんなに政治の話がしにくいのか」と思っているかもしれませんが、これでもずいぶんましになったんです。アイドルや俳優さんが「選挙行こう!行ってきたよ!」と公共の場で発信してくれる日が来るなんて、想像したこともなかった。
政治家が個人のアカウントを持ち、こまめに政策や持論を発信し、あの政策はどうだのこいつはケシカランだのとカジュアルに語れるようになる日が来るなんて以下略。

性的なもの、暴力、薬物ないしそれに近しいものへの曝露も、現在とは比べものになりません。
全裸監督が良かったのでしつこくその話をしますが、「(ドラマを観て)なぜ今日本にこれだけ性的なものが溢れているかよくわかった」とか言ってる人がいて、

近視眼的にもほどがあるな?

と思いました(2000年代的表現)。
そうじゃないです。あれは「ずっと性に対して抑制的だった日本を破壊した戦犯のストーリー」なんかじゃない。ただの回帰です。開国後、異常な速度で盲目的にキリスト教準拠の西欧文明へ傾倒していった結果、ほんの数十年続いていた借り物のポリコレが暴かれただけです。
歴史をちょっと学べばすぐわかります。江戸時代(原爆投下から80年弱遡れば江戸時代です)までの日本の庶民の風俗は、当時の家父長制バリバリ絶賛カトリックな欧州を震え上がらせるようなありさまだったわけです。
国家神道の時代が異常だっただけです。軍国主義に向かって、管理しやすいように人間の品質をコントロールされていただけなのでね。
※個人の感想です

FF内で、こんなツイートを見た。
「暴力表現はないに越したことはない」
このくだりに、私はひっかかりを感じた。なので質問した。

素朴な疑問ですが、「ないに越したことはない」のは何故でしょうか?

と。
暇な人はツリーを読んでもらうとわかると思うけど、結局のところ、彼女(おそらく)は答えられなかった。(ので、重ねて問うのをあきらめた)
私が問うているのは、「子供に暴力表現を与えない、暴力以外の解決を示したほうがいいに決まっている」は本当に自明なのか?ということだった。
しかし、この人──に限らず、この手の論調の人はほとんどがそうだろう──は、「現実の暴力がいかに悪徳か」「子供が暴力を楽しむおそれ」について語るばかりで、「暴力表現に影響を受けた行動を子供が始めることは、発達上本当に望ましくないのか」について話ができない。
考えたこともないのかもしれない。

ゲーム等の暴力表現が子供の行動や脳波に与える影響、などの研究をいくつか見ることができるけれど、論文にもある通り、ここでわかるのはゲームをプレイした直後の子供の行動に関わる「行動」のバリエーションだけです。
私がずっと疑問に思っているのは、
「子供が早い段階でコントロールされた暴力表現を学び、教育によって思考訓練を課されること」と、
「暴力での解決に極力曝露せずある程度の年齢まで育ち、暴力による解決という選択肢を知らずに過ごすこと」
どちらがより子供の発達に寄与するのか、研究はなされているのか、思いは巡らされているのか、という点です。
これは霊感ですが、そこまで生の実験てできないんじゃないですかね。
というより、自分たちが子供の頃よりはるかに「悪」に曝露しない環境で子供を育てている、今の社会そのものがかなり露骨な人体実験であるなと考えています。

もちろん、社会はずっと新しい姿への変革、つまり実験を繰り返していまに至るわけですが。「人間を使って実験をしている」という自覚もなく、自分の設定した善へと邁進する姿はまあ、次世代以降の人びとに対して、お世辞にも謙虚で誠実とは言えないものだなと思います。
じつに毒親的だ。

いやー怖いですねぇ、悪いものは遠ざけて触れさせないのが当然に子供のためになると信じる大人たちが、無批判にゴリゴリ進める人体実験。
人間は間違えるので、この選択もきっと多くの間違いを含むんですけど、私のようなマイノリティにこの盲目を止める力はねえなあ。


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はしがき・メモ
日本の旧中間層─その社会的性格─[寿里茂,1962]
90年代の日本と韓国の社会変動と日韓相互認識研究の課題─若者研究の視点から─[栗原孝,1994]
コンピューターと選挙[伊藤洋,1996]
若者論の系譜─若者はどう語られたか─[市川孝一,2003]
若者のメディア利用と政治意識─都市とメディア環境をめぐって─[羽渕一代,2006]
市民の政治参加におけるインターネットの影響力に関する考察 ―参加型ネットツールは投票参加を促進するのか―[金相美,2009]
<ミドルクラス>の再考[周倩,2013]
若年層の政治的関心と趣味─「趣味活動」と「趣味嗜好」という観点から─[寺地幹人・小川豊武,2013]
政治的リテラシーと政治[川島耕司,2014]

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