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空手バカ一代世代の憂鬱

過去に少年マガジンで連載されていたドキュメンタリーを謳った罪作りな劇画である、『空手バカ一代』によって人生が変わった男たちは、きっと星の数ほどいるはずだ。

後年、いろんな暴露本によって明らかとなったが、この劇画で描かれている内容の大半が何とデタラメなのだ。

原作者である、梶原一騎先生が創作した大山倍達半生記ではあるが、梶原氏は、その中でもなるべく実像に近い空手家を登場人物のモチーフとした。

『ケンカ十段』芦原英幸

そのトンデモ劇画の主役の一人に『ケンカ十段』の異名を持つ男がいた。武道の段位システムもよく分からない当時の読者に、突如投げかけられた意味不明のこのパワーワード。

この『ケンカ十段』は、極真空手本部指導員の立場でありながらケンカ三昧の日々を過ごす。

ある日警察に捕まるも、あろうことか拘留中に警官に暴行を加えて道場を無期禁足処分になる。

頭を丸め、バタ屋で働きながら反省の日々を過ごしていた彼に、当時の極真空手師範代であった『鬼の黒崎』こと黒崎健時氏は、東京から遠く離れた四国愛媛県での極真空手の普及を命ずる。

愛媛県までの片道切符を握りしめた『ケンカ十段』が巻き起こす、読者驚愕のサクセスストーリーの始まりである。

他流派空手道場への道場破りを皮切りに柔道日本一との異種格闘技戦、さらに極真空手壊滅を目論むジプシー空手家との対決etc…

そして、ケンカ三昧の彼に愛想をつかして去り行く女にナイフを投げつけ引き止める(後の奥さま!)など破天荒なエピソードの数々…。

最終的に彼は、全国で初めての空手専用のビルを建て、しかも自分を追い回していた警察署での空手指導を行うまでとなった。

この男、『ケンカ十段』芦原英幸は、全国の血気盛んな若者の心を鷲掴みにした。当時の男性が憧れる格闘技は間違いなく極真空手であった。そして、その極真空手が生んだ最大のスターが芦原英幸なのだ。

先進的で個性的だった芦原空手

ある日、その彼が何の因果か私の住む町に道場を開いた。小さな町だったが、小学生から大人までの男子ほとんどが芦原英幸を知っており、彼の開いた道場には興味を示していた。

ただ…。
怖いもの見たさに~という表現があるが、本当に自分が恐ろしく感じているものには近寄る事すら憚れる。

何と言っても、地上最強との誉高い大山倍達館長が率いる極真会館(と思っていた)である。そして、その中でも突出したケンカ屋である芦原英幸先生の道場だ。

私は中々、張り巡らされた結界が破れず、道場の近くを行ったり来たりする事を数か月繰り返していた。その日も、小一時間ほど道場の近所をウロウロしていた。こりゃ、もう立派な不審者である。

意を決して道場に続く階段を上ると、板張りの道場が見え、ちょうど数名の門下生が練習中であった。

最初に驚いたのは、白帯を付けた門下生が綺麗な後ろ廻しを蹴っていたことだ。当時の私には、後ろ廻し蹴りは天才児にしか蹴れない秘技との思い込みが強くあった。

『白帯が後ろ廻しやと?!やっぱり極真は凄いわ!』単純な私は、もう入会する気満々である。ほどなくして稽古が終わり、その日のうちに入会手続きをしたのだが…

芦原会館?!何それ!! 極真とちゃうの?!

てっきり極真空手の道場だと勘違いしていたのである。

芦原会館って…。個人商店感満載のネーミングは正直、その時は恰好悪いと感じた。

入門後、芦原英幸館長を初めて見た時も衝撃的だった。
うわっ!腹がメッチャ出てるやん!! それに脚細っ!!
当時、館長は脂の乗り切った30代半ばのはず。これが空手達人の体とは…。

しかし館長には、入門前の私が抱いていたイメージを遥かに超えるモノがあった。

それは…。
兎にも角にも恐ろしい!!!

その眼付き・言動・所作・コワモテの高弟達が見せる畏怖の態度…。何がどうとは言えないが、もぅ全体的にコワイのよ。

事実は小説よりも奇なり。トンデモ劇画より実物の方が、リアル『ケンカ十段』であった。

しかし、いざ技術の説明となると、ジョーク(他流の悪口が大半)を交えながら、時間をとって解りやすく丁寧に教えて下さった。

芦原空手は基本動作一つから相手を効率よく倒す工夫がなされており、原型である極真空手とは技術的に異なるところが多く見受けられた。

館長のパンチのキレとスピード、そしてローキックの威力は凄まじく、黒帯相手に技を実演して見せてくれるのだが、受け手の先輩が気の毒になるくらい倒されていたのが印象に残っている。

何よりも空手で一番大事だと言われる基本稽古が実戦にどう繋がるのかを論理破綻が無く説明できた稀有な方だった。

芦原館長には、お喋り好きな一面があり、自身著作の書物では一切触れていない衝撃的な暴露話を何回か聞いたことがある。

その時の館長は、とても楽しそうだった。

「後輩がチャカ持って脅しに来たんですよ~(^^♪」

何がオモロイねん?!その後輩は散々な目に遭わされたようだ。

ある日、『芦原は腕時計をはめるのを辞めたんですよー』っと仰った。聞けば、左ストレートを打つと必ず腕時計がフッ飛んで壊れるからだそうだ。

その場にいた多くの門下生は皆こう思ったはずだ。
『ええ年なのに、まだストリートファイトしてるんや…。』

ある昇級昇段審査会の時に、館長は豪快に遅刻されてきたのだが、すぐに審査に入らず1時間以上お喋りをなさっていた。

空手界の裏話が多かったのでトークは面白かったが、ずっと床に座って腰が痛くなった私には散々な審査会となった。

突き蹴りのコンビネーション審査の時、腰が痛く、技に全くスピードが乗らなかった私に「お前には3級やろうと思ったんだが、お前なんか4級だっ!!!」とのたまわれた。

飛び級が吹っ飛んだあげくに、この言われよう…。全部、アンタのせいやん…。

カリスマ 中山猛夫先輩

リアルであった芦原館長の道場にはリアルな男達が集った。

入門たった半年で、極真空手第9回全日本空手道選手権に出場し準優勝を飾った中山猛夫先輩は、その最たる存在であった。

芦原館長が天才児だと褒め称えた中山先輩は、いつもお洒落で立ち振る舞いもカッコよく、それでいて先輩が後輩を虐めることを絶対に許さない優しい方だった。

『人間の足はね、手を真上に挙げた所まで蹴れるんだよ』
『ホンマかいな?』っと訝しがる私達を尻目に中山先輩はブーンと、その位置を廻し蹴りと後ろ廻し蹴りでみごとに振り切ってみせた。

また、中山先輩に技術指導を受けた際、チョコンと肩口を蹴られただけで腕全体に痺れが出て箸が持てなくなり、その日の晩飯が食えなくなったのは今となっては良い思い出である。

『正しいフォームと間違ったフォームでは、ゆっくり蹴っても威力に凄い差が出るんだよ!みんな見ててね!どぅ?どっちが痛い??』と中山先輩。

脂汗をかきながら『押忍…。どっちもです(´;ω;`)ウッ…』と答える私…。
この時の経験から打撃の威力を増すのはフォームの良し悪しではなく、もっと根本的な問題だと気づいた。

中山先輩はその後、石井和義氏が立ち上げた正道会館に電撃移籍された。先輩が移籍後も芦原館長は折に触れ、中山先輩の空手は素晴らしかったと仰っていた。

芦原館長は、勝手に他流派の大会に出て負けた門下生には辞めろ!と言わんばかりのキツイ態度で接するが、強いと認めた弟子たちへの評価が変わることは無かったように思う。

強さとは、芦原館長にとっては、それほどに尊いことなのだ。

余談であるが、正道会館の全日本大会で目の当りにした、中山先輩のアップライトの構えであったり、左を多用する攻撃にインスパイアされた芦原道場出身者は少なくなかったことだろう。

かくいう私もその一人である。

何十年もの間、理想の空手家である中山先輩の残像を追いかけている。相手を怪我無く制圧することもでき、尚且つ、人体を効率よく破壊する術をも併せ持つ、野性的で華麗であった天才児。

大山倍達総裁・芦原英幸館長・大山茂師範など空手界の重鎮が絶賛した中山先輩は、わずか数年の選手生活ながら私たち後輩に絶大なインパクトを残された。

極真空手を代表とするフルコンタクト空手を仮想敵として誕生したのが、芦原英幸の戦闘技術サバキである。

当時のサバキ第一人者であった前田氏と中山先輩の決勝戦が、フルコンルールで行われた第1回正道会館全日本大会は思い出深い。

極真会館のオープントーナメント参戦時とは明らかに違う構えと風格で、前田氏を圧倒して優勝を飾った中山先輩はサバキの完成形を見せてくれた。

サバキは相手を制圧する技術ではない。相手を完膚なきまで叩き潰すために芦原英幸館長が纏めた危険技の集合体である。つかみは本来顔面パンチであり投げは頸椎を捻っているのだ。

そして一番の特徴が、他流派には類を見ないほど厳格に設定された要求のもと、地道に積み重ねられた基本稽古によって培われた突き蹴りの威力である。

自分が目を掛けていた高弟二人が揃って正道会館に移籍し、尚且つ仮想敵であるフルコンタクト空手のルールで決勝を争うさまは芦原館長にとってどう映ったのだろうか…。

芦原vs中山?!真実は闇の中

中山先輩に心酔していた私だったが、先輩を追って移籍先の正道会館に移ろうとは全く思わなかった。

初期の正道会館は石井氏を筆頭に、よくテレビで吉本芸人と共演していたのだが、それが10代の私にはとてつもなくダサく映ったのだ。

それと決定的だったのは中山先輩と同時期に、これも芦原会館から正道会館に移籍した伊藤氏が連れ立って芦原会館関西本部に現れたことだ。

中山先輩が道場に続く階段を昇ってきたときに応対したのは私であった。

『芦原先生は、いらっしゃいますか?』

退館した中山先輩と伊藤氏が、何故そろって芦原会館関西本部に訪れたのか、その理由がわかって私は身震いした。

居並ぶ黒帯を正座させ、自らはパイプ椅子に座りながら正道会館に揃って移るように中山先輩は強い口調で説いた。

芦原館長不在の道場にて堂々と正道会館に勧誘する、そのさまを見て強い違和感を感じた私は早々にその場を後にした。

武道の世界は任侠の世界と同義であると思う。相手が逆らえないほどの力を持つものが勝者となるのだ。そこには徳など何の役にも立たない。そして、そんな世界に住む彼らに私は、もはや興味が無かった。

私は、ただ空手が上手くなり昨日の自分より強くなりたかっただけである。三人がその日出会って戦ったか否か私には知る由もない。だが、その後のさまざまな流れから結果は推測できる…。

敵は芦原空手か?英武館空手誕生

バブルもあり何かと誘惑の多かった時代。空手一筋とは中々いかなかった。

私は、何度か入退会を繰り返しながらも20年近くに渡って空手に思いを馳せ、なんとか憧れの芦原空手の黒帯を取得できた。

辞めては、また白帯から始めることを何度も繰り返した。特段、練習がキツイとか人間関係がツライとかではなく、空手以外の事がらも私の成長の過程に必要だったのである。

10代・20代・30代に渡って延べ6年間の修行だったが、その都度、芦原空手の技術が少しづつ改変されていたのには驚かされた。

そして、あろうことか芦原会館関西本部を任されていた松本英樹師範代が、何と芦原空手を仮想敵とした全く新しい空手を創造されていた。

当時、芦原会館主催大会の噂があり、その強さについては誰もが認める松本師範代は、その大会に自身も参加するつもりだったのだろう。

松本師範代の創造した空手は、タメを作らず、しかも軸をブラさないという芦原空手の対極をなすものであった。

松本師範代は、芦原館長のボディガードを務めるほどの実力者であるが性格的な事で、よく館長に人前で叱責されていたのが気の毒であった。

朴訥な印象を与える松本師範代だが、聞けば何でも論理的に、しかも出し惜しみなく教えて下さった。

師範代直伝のタメを作らず蹴るローキックの威力は凄まじく、黒帯の先輩方を体力で押しまくる色帯を一発で倒す事が出来た。

当時は動きを模倣していただけであったが、技のメカニズムが理解出来るにつれて、これだけの技術を独自に構築した松本師範代の先見性には驚かされる。

私はいまだに空手界の住人であるが、中山先輩と松本師範代という、お手本となる空手家に出会えた奇跡に感謝している。

館長最後の審査会

芦原英幸館長が病で床に臥せる前に行われた、最後の審査会での黒帯昇段は感慨深いものであった。

その審査会に参加していた、ある若い門下生が基本審査で行った上段廻し蹴りのキレを見て芦原館長は泣いた。鬼の様にコワイ館長が、人目もはばからず頬を涙で濡らしていた。

何故、泣かれたか、その理由はわからない。

だが泡沫会員の私が見てもヘッドが走ったレベルの違う蹴りであった。次世代の中山先輩が、やっと見つかったからなのかもしれない…。

多感であった十代から、こんなリアルな男達に触れた私は総合格闘技MMAが幅を利かす現代においても、未だ空手最強伝説を引きずっている。

これを憂鬱と言わずして何と言うか…。


あとがき

初心者の頃、私たちは、ある指導員からカンフーの旋風脚のような技術を学んだ。難しかったが私を含め数名の白帯が熱心に、その技術に取り組み自分のものとした。

そして、ある者は審査会でその技を芦原館長に披露した。それが芦原空手だと信じて疑わずに…。旋風脚を見た瞬間、館長は烈火のごとく怒りだし、その門下生を大勢の前で吊るしあげて晒し者にした。

芦原会館の空手は芦原英幸の空手であり、祖である芦原英幸亡き後は芦原家の空手である。流派名に自身の姓をつけるということは、そういうことである。

そして芦原英幸は芦原空手の技術を指導員が勝手に改編したり、他流派の技術を導入することを極端に嫌った。先代館長の指導を受けた経験のある門下生には容易に理解してもらえると思うし、それについて異論も無いと思う。

芦原空手は素晴らしい技術体系を持った唯一無二の空手である。その気持ちは他流で学ぶようになった現在でも変わらない。ただ全てにおいて完璧ではない。

特に左フックを主としたコンビネーションに全く対応できないことは、当時から熱心な門下生の間で話題となっていた。その技術の隙間を埋めるために各々が独自に研究・鍛錬して高め合ってきた。

しかしながら芦原会館の道着を着るならば、オリジナルの芦原空手と自身の技術は切り離して考えなければいけないと思う。技術を見境なくミックスすることで、その原型が失われる懸念があるからだ。

開祖の技術や思想は、なるべく手を付けずに残していくことが肝要である。何故なら、それは門下生が技術的に思い悩んだ時に、暗闇に光をあてるサーチライトのような存在なのだから。

空手は、とどのつまりは、ひとり一流派に落ち着くことだろう。基本動作一つとって見ても、規模の小さい町道場単位でも統一するのが難しいのが現状だ。

動作が異なると身体操作や実際の用法が変質する。こうして身体芸術の世界では際限なく分派を繰り返していく。

だが修行者には戻るべき場所が必要だ。私にとって、それが芦原空手である。

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おまけ 芦原英幸 先代館長語録

シューシュー言うな!

変な顔だなぁ(とんかつ屋の店員に対して)

お前、お茶出た?(中村忠師範ゆかりの人に対して)

軸足を回して蹴るな!

芦原空手にジャブはないんだよ!

芦原空手にはスポンサーはいません

おい大山!!!(門下生の大山姓の皆さんに対して)

ご支援賜れば、とても喜びます。 そして、どんどん創作するでしょう。たぶn