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愚痴

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愚痴を誰かにこぼしたところで自分の状況が変わるとか、あるいは少なくとも自分の気持ちがスッキリするなんてことは滅多にない。でも腹に溜まった黒っぽくてモヤモヤした重たいものを吐き出さずにはいられないことって誰にでもあるのではないだろうか。

私の年齢は世の中的には、もうものの分別がきっちりとついて、すいもあまいも噛み分けていると受け取られる年齢である。
そんな私が愚痴なんか吐くなんてみっともないと思われるかもしれないが、いくら年齢が上がったとしても私の人間性がそれだけで立派になるなんてないわけだから、腹立たしいことは残念ながら一向に減らないのである。

若い頃の愚痴はそれを聞いてくれている人の気持ちなどお構いなしに、向かっ腹のたつことや人を徹底的に糾弾していたような気がする。
それを聴いてくれる人が私の腹の立てように怯んでしまうとか、“ちょっと言い過ぎじゃない?”とか思うなんて考えもしなかった。だからある意味、愚痴を吐き出した後は、心なしか気持ちが軽くなっていたようにも思う。

しかし今、こうして年齢が上がってからこぼすようになった愚痴はどうもスッキリしない。
それは腹立たしい出来事や人のことを説明している端から、頭のどこかで聴いてくれる人に嫌われたくない、良識のある人だと思われたいと願っているからなのだ。
“そう、相手の人も悪い人じゃないと思うよ。”とか、“私にも当然非はあるとは思うんだけど。”なんて私の愚痴は話すほどに歯切れが悪くなっていく。
年齢が上がり、経験値が若い頃よりも高くなってからついついこぼしてしまう愚痴は、その言葉を発する前にいくつもの危険回避フィルターや人間関係潤滑センサーをくぐり抜けてやっと口から飛び出していく。
その結果、すっかり毒の抜けた愚痴とも言えない愚痴が私の口の端から発せられ、そして精製された怒りや毒々しい思いだけが心に蓄積されていくのである。
でも安心して欲しい、溜まりにたまる精度の高い黒い感情は、年齢とともに忘れっぽくなるという老化現象に助けられ、順々に浄化されているのだから。

今日紹介するのは佐久間敏治さんの金継ぎ作品である。
江戸時代になると庶民の食生活が飛躍的に向上した。そばを食べる習慣もこの時代にできたと言われる。その証拠になるのがそばちょこである。1700年代に作られたこれらはさまざまな人の手の温もりを感じ、さまざまな人たちの取り止めもない話を聞いていたのだろう。
金や銀で斬新に繕われた蕎麦猪口を手ですっぽりと包んで、歴史本の中では決して語られない市井の人々のストーリーに私はじっと耳を傾けたくなる。

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