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【SPORTSMEN IN TOIN CAMPUS】桐蔭横浜大学女子柔道部編 1

岡 明日香 桐蔭横浜大学女子柔道部監督

「階級を変えるのは、とても大変なことなのです」
桐蔭横浜大学女子柔道部監督、岡明日香氏は、穏やかに語った。
2018年9月。女子学生体重別選手権70㎏級で、桐蔭横浜大学が上位3位を独占した。
その結果を知って、実力のある選手を、それぞれ違う階級に分散した方が、優勝者が増えるのではないかと単純に思い、岡監督に
「もったいなくはないですか?」
と素朴な疑問をぶつけてみた時の事である。
岡監督はしばらく考えてから、やんわりとこちらの素人考えを正してくれた。
女子70kg級はただでさえ選手層が厚かったのだが、本学の嶺井美穂選手が63㎏級から階級を上げて出場したので、「最激戦区」と言われるようになったのである。
では、なぜ嶺井選手は階級を上げて出場することになったのだろうか?

嶺井美穂選手

嶺井美穂選手は、いわば鳴り物入りで桐蔭横浜大学に入学してきた柔道エリートである。
桐蔭学園高校時代には、多くの大会で優勝し、この階級の将来のエース候補とみなされていた。
全柔連の強化指定選手にも選ばれ、TV番組「ミライ☆モンスター」1でも特集を組まれるほどの注目選手である。
当然、多くの大学から勧誘があったわけだが、岡監督の
「私は嶺井さんと一緒にオリンピックに出たい!」
という勧誘の言葉に嶺井選手が感激して、桐蔭横浜大学への入学を即決したという。ちなみに、両親になんの相談もせず、まったくの独断だった。
彼女の決断は、多くの柔道関係者を驚かせた。
しかし、一番驚いたのは創部間もない本学女子柔道部関係者だったろう。
「よく彼女のような有名選手が、うちに来てくれた」
と何度語り合ったことか。
「これでうちの女子柔道部は、躍進を遂げることが決まりましたね?」
と質問を投げかけると、
「いや、喜んでばかりはいられないんですよ。せっかく逸材に来てもらったのに、しっかりと育て上げないと、『やっぱりあそこじゃ駄目だ』というマイナスの評価を貰いかねませんからね」
なるほど、諸刃の剣なんだな。そんなに単純な話ではないのだなとつくづく実感させられる、冷静なコメントだった。

残念ながら、この時の予感は、悪い方に当たったようにみえた。
嶺井選手は高校3年次の、卒業間近の1月に、右肩二頭筋腱損傷により全治9か月の大手術を行っていた。そのため、大学入学後すぐの4月の体重別選手権に、出場できなかったのである。
そして二度目の故障は、大学2年次の5月のことだった。右手親指を亜脱臼し、同じように手術を受けた。
さらに、その年の9月には、三度目の故障を起こした。出場を目指して日々、練習に励んでいた全日本学生柔道体重別選手権大会の二週間前のこと、今度は、わき腹の肉離れを起こし、大会への出場を断念しなければならなくなった。度重なる怪我のため、大学に入学してからの彼女は、3年間でわずか3回しか大会に出場できなかったのである。
また、2年次の体重別選手権の際には、ウェイトコントロールに失敗。体重超過のため失格となり、大会に出場できないという事態になった。
この時の失敗が後を引いた。
全柔連が定める計量超過に関する罰則の適用を受けることになり、強化指定選手から除外されてしまったのだ。
度重なる不調により、周囲からの期待に応えられない精神的な負担は、どれほどのものだったろうか。
その辺の事情がよく分かっていなかった頃は、キャンパス内で彼女の姿をみかけると、
「頑張ってね!」
と気軽に声をかけてしまっていた。
そんな時、彼女は
「はい!ありがとうございます!」
といつも感じのいい笑顔で答えてくれてはいたものの、心中はいかばかりだったろう。
二回目の出演となる「ミライ☆モンスター」2では、嶺井選手の母親が、
「顧問の先生とぶつかったり、練習から逃げ出したりして、こんなんで本当に戦えるのかな」と心配していた胸中を語っている。
実際、道着を身に付けようともせず、道場に顔を見せにない日が、一週間くらいはあったそうである。

期待の星、嶺井選手が自暴自棄になっているのを目にした岡監督は、正直、
「彼女はもう柔道を続けられないのではないか」
と危惧したそうである。
さらに、本人が悩み苦しんでいた時期には、岡監督自身も苦しかったと後に語っている。
そんな嶺井選手を救うために、岡監督はある大胆な提案をした。
「嶺井さん、63㎏級から70㎏級に階級を変更しよう」
この言葉を聞いて最初、嶺井選手は非常に驚いたそうである。
階級を変えるのは、実に大きなリスクを伴う、言わば「賭け」なのである。
嶺井選手が今まで勝利を賭けて、しのぎを削ってきた選手よりも、はるかに身体の大きな選手と闘うことになる。当然、今までの対戦相手より力も強いだろう。果たして、嶺井選手は、70kg級で通用するだろうか。
体重差7㎏というと、男性プロボクシングの階級に置き換えると、5階級ほどの違いがあるという。格闘技の世界において7㎏の差とはかくも大きいのである。
しかし、何よりも階級を上げることを迷わせたのは、63㎏級に対する嶺井選手の愛着であろう。この階級で築いてきた数々の栄光を手放すことを意味するからだ。

結局、最終的に階級を上げることを決断したのは、
「優勝して強化選手に返り咲きたい。そうしないと何も始まらない」
という彼女の柔道に対する熱い思いだった。
そして、いったん心を決めると、彼女はひたすら突き進むタイプだった。
階級を上げても勝てるようにと考え抜かれた、岡監督の作戦をこなすべく、ひたすら練習に励んだ。
その作戦とは、彼女の得意の大外刈りが、身体の大きな選手にも通用するように足技に磨きをかけることであった。
まず、足技で相手をぐらつかせて、得意の大外刈りをかけるといった練習を徹底的に行い、いざ、試合に臨んだ。
前日のテレビインタビューでは、嶺井選手は余り緊張した様子を見せずに、
「絶対に、優勝する」
という意気込みを語っている。
悲壮感は全く感じられず、むしろ、久々に試合に出場できる喜びを抑えきれずに、嬉しくて仕方がないといった印象を受けた。

2018年9月29日。女子学生体重別選手権70㎏級試合当日。
予選を勝ち抜いた、30名の選りすぐりの選手がエントリーしていた。
トーナメント表によると、初めて70㎏級に出場する嶺井選手は、シードされていなかった。
反対側のブロックには、後輩である朝飛七海選手がシードされていた。

朝飛七海選手

70kg級の試合には初出場にも拘わらず、嶺井選手は落ち着いて見えた。
背中にバンバンと岡監督から気合を入れてもらい、一回戦の畳に上がった。
試合開始とともに、練習してきた足技で相手を倒すと、いったん態勢を立て直し、得意の大外刈りに持ち込んだ。
岡監督の作戦通りの快勝だった。
二回戦は大外刈りではなく、練習してきた足技で一本勝ちした。
準々決勝は、体落としで「技あり」を奪い、難なく勝ち上がった。

まさに、得意の大外刈りだけに頼らず、技が多彩になった成果が表れていた。
準決勝は、桐蔭横浜大学の同級生、杉山歌嶺選手と対戦することになった。

杉山歌嶺選手(高校時代)

試合前、
「最大のライバルは誰?」
という質問に答えて、嶺井選手は、杉山選手の名前を挙げていた。
杉山選手は、全日本ジュニア選手権70㎏級で優勝経験の持ち主で、国際大会のジュニア代表選手の経歴もある強豪選手である。
杉山選手の身長171㎝に対して、嶺井選手は164㎝。身長差は、実に7㎝もある。
これだけ体格に差のある杉山選手について、
「一生懸命下から付いても、上からヒョイと持たれてしまう」
と評している。
奥襟を簡単に取られたら、苦戦するだろうなということは素人にもわかる。

試合前、嶺井選手は次のようにも語っている。
「普段から一緒に練習しているので、お互いの強さは理解し合っている。相手からやられる前に、先に攻撃できるかどうかが勝負の分かれ目となる。ここでは何としても勝ち進みたい」
準決勝を前に、インタビューにもナーバスになることなく落ち着いて決意を語っていた。
対する杉山選手は、
「お互い指導で勝つのだけは避けたいので、投げるか投げられるかの勝負だと思う。思い切って試合に臨みたい」
と時折笑顔も交えながら、こちらも意気込みを語った。

選手入場口付近で試合を待つ二人は、対照的な様子だった。
杉山選手は、鋭い目付きで試合場を凝視しており、既に柔道着姿だった。対する嶺井選手は、ウインドブレーカーを羽織ったまま、イヤホンから流れるリズムに合わせて体をずっと揺らしていた。
白の道着の杉山選手と、青の道着の嶺井選手。
ライバルチームメイト対決による、準決勝がいよいよ始まる。

準決勝は、激しい組手争いを中心に両者拮抗した戦いとなった。

大きな動きがあったのは、ラスト30秒だった。
杉山選手が奥襟を取り、技を仕掛けたところに嶺井選手はカウンターで得意の技大外刈りを放った。
それが「技あり」となり、そのまま逃げ切った。
決勝に進むのは、嶺井選手となった。
試合後のインタビューで、彼女はちょっとした「天然ぶり」をみせた。
「技でのポイントは取れなかったんですけど、相手に流れを渡さずに済んで良かったです」
と語り、インタビュアーを困惑させたのだ。
「技あり、決めましたよね?」
インタビュアーが問いかけると、
「あっ、そうでしたよね?私、投げましたよね?忘れていました」
と自分でも可笑しくてたまらないように照れ笑いしながらコメントした。
勝負に集中しすぎて、大外刈りで「技あり」を取ったことをすっかり忘れていたのだそうだ。
ある意味、ものすごい集中力である。

決勝相手は、まだ一年生(当時)ながら、反対のブロックを勝ち上がってきた、後輩チームメイト、朝飛七海選手。
彼女もまた柔道一家で名が知られており、ジュニアの頃から活躍してきた選手である。
予想通り、勝負は拮抗し延長戦となる。
ここからは、どちらかがポイントを取った時点で勝敗が決まる「ゴールデンスコア方式」となる。
延長1分。
得意の大外刈りではなく、練習してきた足技がさく裂する。
技あり!
この瞬間、嶺井美穂選手は、最激戦階級と言われた70㎏級で初出場、初優勝を成し遂げ、見事完全復活を成し遂げたのである。

岡監督に祝福を受ける嶺井選手の目から、思わず嬉し涙がこぼれた。
本当に久しぶりの嬉し涙だった筈だ。
「岡監督が私の背中を押してくれなかったら、70㎏級に変更することもなく、63㎏級でやることにこだわっていて、きっと心も身体もボロボロになってしまっていたのではないか。これで、ほんの少しなんですけれど、岡監督に喜んでいただけたのではないかと思う」
それに応えて岡監督は、
「一回戦で畳に上がったときに、心の底から嬉しいと思っていたのですが、最高の結果を出してくれて、これから先の未来に、希望の光が見えたような気がしました」
とインタビューで語った。
この優勝を受けて、嶺井美穂選手は、全日本強化指定選手に復帰できた。
しかし、本当の試練はこれからであろう。

試合後、畳を叩いて悔しがっていた朝飛七海選手。嶺井選手をあと一歩のところまで追いつめた一年生選手、この敗戦をバネにしてさらなる飛躍を望んで欲しい。
「やるかやられるか」の真剣勝負に挑んだ杉山歌嶺選手。彼女も70㎏級の先輩として屈辱感を噛みしめていることだろう。
有望選手を70㎏級にそろえた岡監督の今後の指導の在り方を含めて、しばらくは桐蔭横浜大学女子柔道部の活躍から目が離せそうにない。

右から優勝の嶺井美穂選手 二位 朝飛七海選手 三位 杉山歌嶺選手

(文 宮津 大蔵 / 編集・校正 伊藤万里 / デザイン 野口 千紘)
1. フジテレビ系 2015年7月12日放送
2. フジテレビ系 2018年10月21日放送

*この原稿は桐蔭横浜大学の協力を得て書かれています。
後日、まとめられて桐蔭横浜大学出版会より電子書籍として出版される予定です。

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